大自然のなかで自由な滑走を楽しめる大きな魅力の一方で、さまざまな危険が潜む雪山のバックカントリー。バックカントリーガイドは、そんな雪山で安全を担保しながら、豊かな知識と経験をもとに、得も言われぬ滑走体験を提供してくれる専門家だ。そのプロガイドを生業として選び、一歩一歩ゆっくりと堅実にその世界へと深く踏み込んでいく新進気鋭のガイドたちの「人となり」や「ガイディング」に迫る。
30を機にガイド会社を立ち上げた
スキーガイドステージⅡを25歳で取得した(最年少記録!)渋沢 暉(しぶさわ ひかり)。’24ー25シーズンから『LEAD Mountain Guide』を立ち上げ、新たなスタートを切った。
「20代で様々な経験をして30歳になるのを機に、独立を決意しました。山へお客さんを『導く』、『先導する』という意味のLEADです。お客さんと意思の通ったひとつのチームを作り上げ、山を移動する『先導者』でありたいという意味を込めています。ウリですか? なんでしょう? ヤブを漕いだり、沢を渡渉したり、汗みどろの長期山行とか、泥臭い山行が得意……好きです」
「ヤブ」「渡渉」「泥」「臭い」……真っさらな雪山とは対極のキーワードが次々と口から飛び出す。きらびやかで、あかぬけたBC業界において、なかなか稀有なガイドと言える。話を聞いていると、資格があるのになかなか独立しなかったのは、彼に実力があったからだとわかってきた。先輩ガイドのサポート、四季を通したテレビ撮影の安全管理と歩荷、スキー場のパトロール、北アルプスの夏山常駐隊、母校の実習引率……引く手あまた。周囲からお願いされると、断れない人の良さ。動けて気が利く若者は多方面から頼りにされて、それに全力で応えるあまり、自分のことができていなかったようだ。
信越五岳からアルプスへ
渋沢暉は、信越五岳(斑尾山、妙高山、黒姫山、戸隠山、飯縄山)が見渡せる長野県長野市に生まれた。渓流釣りが趣味の父に連れられ、幼い頃から妙高や戸隠などの山に親しんできた。放課後になれば、千曲川でフナやコイを狙う釣り少年は、体を動かすことが大好きで、スポーツ少年団はサッカーと野球を掛け持ち。いまでも釣りは趣味のひとつで、関川漁協の年券を買って、ちょうちん釣りで岩魚との駆け引きを楽しんでいる。
「将来的には、山岳の資格をとって、夏は渓流釣り、沢登りのガイド、冬はバックカントリーのガイドができたら理想かなと思っています」
中学校では陸上部に所属し、1500、3000mの中距離に打ち込み、県立中野西高校へ進学すると、山岳部の門を叩く。囲まれて育った信越五岳を舞台に登山、渓流釣りを極めたいという思いがあった。しかし、部員は同期ひとりと顧問の先生のみ。
「高校の山岳競技は、4人1組でないと出れないんで悶々としてました(笑)。でも、北信地区だけの個人競技があって、それは地図を読んで、ヤブを漕いでポイントを得るオリエンテーリングなんですけど、ダントツ3年連続で1位でした。小さい頃から地形図を読むのが好きで、地図読みは得意です。そしてヤブ漕ぎも(笑)」
顧問の先生と生徒2人の3人で、白馬連峰をテント泊縦走した1年生の夏山合宿が、渋沢にとって本格的な登山となった。
「白馬大雪渓を登って、不帰の嶮を通って、唐松行って、五竜ピストンして八方尾根を降りる2泊3日のテント泊縦走です。テントを立てたり、ご飯作ったり、衣食住のすべてを任されて、すごくやりがいがあって、楽しかったですね。そして、信越五岳からさらに奥へ続く山の広がりを感じて、もっと登山を深くやりたいと思うようになりました。でも、なんせ部員がいなかったので、放課後はひとりで地図を持って近くの山を登っていました」
もっと本格的に登山をやりたいという思いが募り、妙高市にある国際自然環境アウトドア専門学校(i-nac)山岳プロ学科へと進学する。
「当時は、ガイドになりたいという気持ちはまったくなかったです。講師の登山ガイドや山岳ガイドの方たちと触れ合うことで『自分もこういうふうになりたいな』と憧れるようになっていきました。僕らがヒーヒー言っているところも、スタスタ余裕で動けて、人として深みがあるガイドの講師陣は、ただかっこよかったです」
18歳、1年生の9月に、ソロで衣食住を背負い、北アルプスを25泊かけて全山縦走した。餓鬼岳から入って、燕岳、常念岳から上高地へ下り、岳沢から再び登って、前穂、奥穂、大キレット、双六、鷲羽、黒部五郎、薬師岳、剱岳、五色ヶ原へ戻って、黒部湖へ下り、赤牛岳、水晶岳、針木岳、五竜、白馬で栂海新道から日本海へ。しかも無補給で、停滞日はなし。
「徳沢で食べたことがなかった名物のソフトクリームを食べちゃったので、厳密には無補給とは言わないか」
ソフトクリーム1個くらいいいと思う。渋沢は、謙虚で、実直な男である。
20歳、3年生の9月は、南アルプスを全山縦走。こちらも12泊の無補給、無停滞。
「南アルプス北部の玄関口、広河原から入って、北岳、間ノ岳、農鳥岳、白峰南嶺へ入って、笊ヶ岳、青薙山から畑薙湖へ下りて、茶臼岳に登って光岳ピストンのち、聖岳、ずっと北上して、赤石、荒川、塩見、仙丈、甲斐駒、鳳凰三山で、夜叉神へ下山」
歩いた順に山名がスラスラと口から出てくる。頭のなかにはっきりとした地図が広がっているのだろう。
「南アルプスは縦断というか周回ですね。とにかく稜線を全部踏みたかったんです。自然へ奥深く切り込んで、長く歩きたいというのが、行動の根本にあります」
19歳になった2年生の9月は、長期縦走から離れ、友達と北方稜線や北鎌尾根などのバリエーションルートへ通った。こうして、学校の授業から離れたところでも、自主的に長期縦走所作や登攀テクニックを磨いて、頭のなかに日本アルプス地図を敷いていったという。
師匠、佐々木大輔との出会い
3年生の夏休み、つまり南アルプス縦走へ出発する前、7月10日の海の日から8月いっぱいまでの50日間は、北アルプスの稜線で夏山常駐隊として勤務していた。その頃からガイドとして、生きていこうと思うようになったという。
「3年生の冬山実習で、厳冬期の穂高岳にいきました。講師は国際山岳ガイドの佐々木大輔さんで、生徒は僕ともうひとりだけ。ほぼマンツーマンでみっちり教えてもらって、3泊4日で下山したとき、大輔さんから『これから妙高でスキーツアーをやるんだけど、渋沢おまえも来るか?』って誘われ『いきます』って即答。
お客さんが滑った後、ぼくの番になって『渋沢、全力で滑り降りてこい』って言われて滑ったら『おまえ3年間しかスキーやっていないのに、いいな』って言われて。その晩、お酒を飲んでいるとき大輔さんから『おまえ、デナリに連れて行ってやる』と言われて、憧れていたし、なにがなんでもついていこうと思っていたから『いきます』と(笑)」
専門学校卒業後の2016-17シーズンの一冬、渋沢は佐々木のガイド会社『盤渓』でスキーガイド修行をすることになった。
「大輔さんに『オレのところで勉強しろ』って言ってもらって、1シーズン、サブガイドとしてお世話になりました。テールガイドから、泊まりのときは歩荷、下山口に車を回送したり、いろいろ勉強させてもらいました。大輔さんの自宅の隣に住んでいるご両親の家に居候させてもらって、ご飯はご両親と3人で食卓を囲む生活です(笑)」
佐々木の『盤渓』ツアーがない平日は、佐々木に紹介してもらったサッポロテイネスキー場の『スノードルフィンスキースクール』で子供達にスキーを教えるインストラクターとして、自らの基礎技術を振り返った。
「いままでスキーをちゃんと習ったこともないヤツが、イントラ陣にひとりだけポツンといるみたいな(笑)あきらかに自分がダントツで一番下手でした」
師匠である佐々木大輔からは、スキーの技術、雪山のガイディングなどは、ほとんど教えてもらったことがないという。
「ここはこうしてみろとかアドバイスは、一斎ありませんね。一挙手一投足を近くで見て、体で覚えろ、みたいな昭和な感じです」
2017年の5月、NHKで放送された「世界初 極北の冒険 デナリ大滑走」のサポート隊として、渋沢は抜擢された。撮影&サポートチームにいた国際山岳ガイド加藤直之・黒田誠をはじめとする名だたる山岳ガイドや、日本を代表するアルパインクライマー平出和也や中島健朗と同じ釜の飯を食い、行動を共にして、刺激を受けることになった。
そのときは、メディカルキャンプを設けた4,300mまでの歩荷で終わり、登頂はならなかったが、巨大山塊デナリの魅力に取り憑かれた。その後、19年と23年に2度にわたって自らの山行としてデナリ登頂を果たす。
渋沢が師匠と呼ぶ佐々木大輔は、彼をこう評価して、受け入れを決めたという。
「彼が学生のときから、講師としての付き合いですが、いいガイドになるだろうなあと、ずっと思っていました。どんなことがあっても腐ったり、動じたりしない、気持ちに波がない。いつもポジティブに物事を考えている。なにより性格が良かったです。あと、ガイドとしての素質も申し分ない。体力、スタミナがあって、自ら積極的に山行日数を積んで、上へ上へという向上心を持っています」
ガイドエリアを故郷・北信に決めた
『盤渓』で一冬を越した年の春、スキーガイドステージⅠの試験が長野県白馬村であった。そのときの検定員が、新潟県妙高を拠点に活動するガイドの中野豊和さんだった。
「学生時代から面識があった中野さんに『次の冬は決まっているの?』って声をかけてもらって、中野さんの『IN Field』に5年ほどお世話になりました。故郷から見える山へいろいろ連れて行ってもらって、BCガイドとしての下地を作ることができました」
2020年、25歳のとき、スキーガイドステージⅡをとってからは、『IN Field』のレベル分けしたツアーを任されるようになった。独立した現在、『IN Field』のサブガイドは、母校の後輩たちに引き継がれている。
なぜそんなに若い歳でスキーガイドステージⅡを取得できたのだろう? 体力や人柄がよかったとしても、時間を蓄積した経験がなければ通らない最難関だ。
「覚えることは多かったですけど、難しいとはまったく思わなかったです。スキーって山を自由に歩けます。それゆえに、天気や雪質、地形、お客さんの反応などいろいろ考えることが多くなる。さまざまな要素を汲み取りながら、自分がベストと思えるツアーを自由に作れるっていうのが、楽しくて、やりがいがありました。天気が悪くて、雪のコンディションが良くないとき、受講者のみなさんは、頭を抱えている感じでしたけど、僕はより楽しくなってくるというか。苦境に立たされたとしても、それを抱え込まずに、よしアッチがダメならコッチだ! って臨機応変に切り替えて、楽観的というか。厳しい状況に置かれると、より燃えるといいますか」
「自分は楽観的だ」と笑っていうが、生死に関わる山での楽観は、確固たる自信のなかでしか生まれない。
渋沢は活動の拠点を生まれ育った長野市の隣町、信濃町に決め、一軒家を借りて住んでいる。ちなみに将来を約束した彼女とは、遠距離恋愛中で、まだ独り暮らし。
「信濃町は山に近いけど、妙高みたいに雪が降りすぎなくて、住みやすい町です。そして、山がよく見えます。妙高山、黒姫、斑尾、高妻、戸隠に囲まれて、山の案内もしやすいです。めっちゃ降る妙高新井と、内陸の乾いた戸隠、長野のちょうど中間なんで、その日の気象に合わせてガイドエリアをパっパっと替えることができます。例えば、西高東低が決まって日本海側が降り過ぎたら内陸へって感じで、いいコンディションを求めて当日の朝に動けるんです」
BCガイドには、2つのタイプがいる。ひとつは、スキーやスノーボードが好き、あるいは得意で雪山の世界へ入ってきた人。もうひとつは、四季を通して山が好きで機動力のあるスキーやスノーボードを手にした人。いうまでもなく渋沢は、ザ・後者である。藪漕ぎ上等のオリエンテーリングから無補給の長期縦走や渓流のちょうちん釣りまで、泥臭い山行から山スキーへと流れてきたヤマヤである。だから、そんじゃそこらの逆境ではへこたれず、厳しければ厳しいほど頼りになる先導者となる。
【Profile】
渋沢 暉(しぶさわ ひかり)
1994年、長野県長野市生まれ。長野と新潟の県境、信越エリアを拠点に四季を通して山を案内する『LEAD Mountain Guide』代表。スキーガイドステージⅡを若干25歳で最年少取得したガイド界のホープ。BCで得意とする山域は、妙高火打、戸隠などの信越エリア。2019年、北米大陸最高峰デナリ山頂からスキー滑走を成し遂げ、2023年には海抜0mから歩いて49日目に登頂しデナリ・シー・トゥー・サミットを達成。
日本山岳ガイド協会認定
登山ガイドステージⅡ
スキーガイドステージⅡ
LEAD Mountain Guide
公式サイト:https://www.leadmountainguide.com/
公式SNS:Instagram