トップアスリートに尋ねた「人生を変えた一本」。あの一本があったから…そんな一本が描いた物語や、その一本に込められた思いを辿っていく。
武田 竜(たけだ りゅう)—全日本スキー技術選手権大会で前人未踏の6連覇を達成。基礎スキー界の頂にひとり立ち続ける絶対王者の人生を変えた一本とは?
~人生の一本~
ついにワールドカップ出場の権利をつかみ取ったファーイーストカップでのスラロームの1本
武田竜のはじまり
1984年北海道小樽市生まれ。スキーは物心ついたころには足に付いていた。ホームマウンテンは天狗山スキー場。岡部哲也や佐々木明という、世界レベルのスキーヤーを輩出したアルペンの聖地(メッカ)だ。父は元ナショナルチーム、地元でも有名な鬼コーチ。その息子には幼少期から当然のように使命が課せられていた。「FISワールドカップ(W-CUP)・オリンピック出場」だ。父の希望が息子の夢になる。武田竜のスキー人生は、そこから始まった。
宿命に抗って
「幼少期からずっとトップまでのレールを引いてもらってたんですけど、それが嫌だったんです。親父もメーカーさんも「この道にいるんだったら、あとは俺らがやってやるから」っていうのがあったので、当時はどうしてもそれに反発したかったんですよね。かなり強めの反抗期で、はっきり言って不良でしたよ、僕(笑)。目つきも悪いし、高校でも停学を何回もくらいました。中高生って年代的に悪ぶりたかったのもあるし、地元の友達と遊ぶほうが楽しくていろんな誘惑に負けたりして、決めた目標や道を進めなかったんですよね」
それでも滑れば結果は出る。
「だからスキーをやっちゃっていたんですよね。僕は比較的なんでもできちゃう器用貧乏タイプなんです。10代からずっとスキーエリートで成績が良くて。だから努力もしてなかった。ある程度速く滑れちゃってたから、〝ま、そのへんでいいか″みたいになってたんですよね。
でも、うちの親父は、何でもとことん追求しなきゃダメだ、なんでも追求し続けろ、追求・追求ってずっと昔から言ってた。それがずっと頭にはあったんですけど、僕には正直、窮屈だった。
でも、明(佐々木)は一気に世界レベルに駆け上がって、賢太郎さん(皆川)もボンと抜きん出て、同じ世代では湯浅(直樹)がいきなり世界にいったから、あれ~先越された! みたいになった。
やっぱり自分も追いかけたいって気持ちはあるんだけど、そういう努力はしたくない、たるいじゃん、みたいな。当時は練習もしたくなかったし、陸トレつらいじゃんって。海外まで行ってスキーするまでのメンタリティもなかったんですよ。憧れてはいるけど、そこまではいきたくない。大人に敷かれたレールを走らなくちゃいけないことに対して、自分なりに精一杯反抗してたんでしょうね。決められたものだったから嫌だったのかもしれない」
仲間がいたから
中学3年生、高校3年生、大学時代など、進路が変わる節目節目でスキーが嫌いになるとき、スキーはもういいや、と思うときはたくさんあった。その都度レールを外れて、外れてはやっぱりまた戻る、と自らの意思で繰り返してきた。
本気で離れようとすればできたはずなのに、どうして武田竜はスキーから離れなかったのだろうか。
「仲間がいたからじゃないですか。とにかく仲間といるのが楽しかった。小学4年生くらいの頃は、みんなでW-CUPの強い選手の滑りを真似し合ったり、昼休みはパークにキッカー飛びにいったり、夕方リフトが止まればゲレンデでソリ滑ったりして、純粋に雪山を楽しんでた。そういうのが楽しくて多分スキーをしてたんです。勝ち負けを競うこととかじゃなくて」
パークに入って飛んだり回ったりしていた?
「僕、そういうのはできたんです。怖いものなしだったから。教わるまでもなく見様見真似で。先輩たちが短くて太いスキーボードで360とかバックフリップとかやっていて、僕は長いアルペンの板を履いていたんだけど、ちょっとやってみようと思ったら、1回目でできちゃったんです、バックフリップ。ビビリながらやったんですけど、アレできちゃった! みたいな(笑)。レール乗ったりも結構やりましたよ。
小樽って坂の町で、坂の途中に実家があったんですよ。天狗山スキー場からスキーを履いたまま帰ってこれるぐらいの場所で。その頃って3つ年上の佐々木明が小樽北照の高校生で、ウチで下宿しているときだった。ウチの通りの空き地にキッカーを作って、明ともう一人、北照のモーグルの人がいたんです。函館出身の遠藤淳平。
明と淳平さんが近所のあちこちでキッカー遊びをやりだした。ちなみに楠泰輔も北照の同級生です。そんな連中と4、5人で、みんなでサラ地の雪が溜まってるところにキッカー作って。ビャー!って漕いで、ドカーンって派手に飛んで、技を決めるとカッコイイとか、度胸あんな、アイツとか。とくに淳平さんはすごかった。どっかネジ飛んでんな、この人って思ってました(笑)」
スキーのメインはアルペンだったけど、そういう遊びがすごく楽しかった。中高時代ですね。本当にやんちゃ坊主だった、僕ら(笑)。みんな毎日どういうやんちゃをするかって考えてた。どうやって隠れて酒を飲むか、とかね(笑)。
やっぱりスキーの仲間が一番楽しくて、そいつらとスキーやってるとまた「やっぱスキーか」みたいな感じになった。いまも、もう30年来、結局最後まで長い付き合いになっているのはスキーの仲間。仲間がいたからじゃないですか、スキーから離れなかったのは」
▼以前の石井スポーツのイベント会場からの一枚。よく見ると岡部哲也、佐々木明、児玉毅、山木匡浩、山田卓也ら、超豪華メンバー。
夢を掴んだ一本
武田竜は中学3年生で日本代表ジュニア指定選手になった。北照高校時代も全日本ナショナルチームで戦っていたが、大学生になると結果が出ない時期もあり、全日本から外れて近畿大学も中退。しかし実業団に入って競技を続け、再び全日本にも返り咲きを果たす。結果、9年間アルペン競技を続けた。
「とにかく一度はワールドカップに出たかった」
武田竜はどうしてそこまでワールドカップを追い求め続けたのだろう。
「やっぱりオリンピックやワールドカップっていう最高峰の場所は憧れですよ。それこそ10代のときに一緒に遊んでた明が、19・20歳で表彰台に乗るとこまでいってるのを見ると、やっぱり憧れるし、そこを目指したいと思う強い気持ちが出てくる。アルペン競技はやったことが結果としてタイムに直結するから、タイムを縮める作業との闘いです。満足しないですよ、ずっと。追求しまくって、どうやったら速くなるのか、思い続けながらずっとやってた」
気がつけば、父がいつも言っていた「追求」に夢中になっていた。
しかし、26歳の頃、全日本ナショナルチームから外れてしまう。
「もうスキーをやめようとも思った。エリートで走っていたときも、やっぱりライバルに追い抜かれるシーンもたくさんあって、挫折したり悩んだりしたけど、それでも夢がそこだったから。ワールドカップだったから。
諦めるわけにはいかない。だからもう一度、海外へ行こうと。3年ぐらいでワールドカップには必ず出て、そしてレースはやめるって決めたんです」
同じ、ナショナルチームの指定外だった皆川賢太郎と渡米、アメリカからヨーロッパに乗り込んでレースを転戦、少しずつFISポイントを積んでいき、2014年ワールドカップの出場権を争う予選の最終戦に挑んだ。
「そこで一番をとった。ついにワールドカップ出場の権利をつかみ取った1本、イタリアでのファーイーストカップだったんですが、その1本で人生が変わったと思います。

オリンピックまで行きたかったし、ワールドカップも一回きりだったけど、夢に届いた。ワールドカップのボルミオ戦では、ただひたすら楽しんで滑って、満足してアルペン競技人生に幕引きをした。第1章が終わったな、そう思った」
武田竜は宿命に抗いながらも、最後までその夢を手放すことはなかった。
「でもね、多分もうちょっと早くいけたと思うんです、道をそれなければ。寄り道ばっかりだったんで(笑)。敷かれたレールの通りにいけばオリンピックにも出られたのかもしれない。でも、出られていたとしたら、いまここには居ないかもしれないから」
アルペンを輝かせたかった

FISワールドカップに出たという武器を持って、翌2015年、基礎の世界、技術戦に乗り込んできた武田竜。
そもそも、武田竜は何をしに基礎の世界にやって来たのか。
「アルペンを輝かせたかった。
アルペンで名を馳せることはできなかったけど、誤解を恐れずに言えば、世界レベルから日本にフィールドを下げて基礎に降りてきた。でも基礎の世界ではアルペンスキーのことを知らない人がすごく多い。アルペンスキーの本質や価値を全然わかってもらえない。だから自分がアルペンから基礎の世界にいって、そっちからアルペンをもっと盛り上げられないか、という気持ちがあったんです。
自分が結果を出したり、技術選で優勝することによって自分の過去がわかるから、そのバックグラウンドを見てもらって、アルペンスキーってこうなんだというのを見てもらいたい。アルペンを輝かしい世界にしたかったんです。いまもそのときの気持ちは変わってない」
武田竜は、こんなことを考えていた。

「日本はオンピステでのスキーが一番多い。ゲレンデを滑るなかで一番うまいのはアルペンスキーなんです。アルペンスキーが一番輝かないと、日本のスキーは底を上げられない、僕はそう思うから。
いまのジュニアが基礎をやるのもいいけど、アルペンやらないと強くなれないんだぞと、思ってます。だからそこを頑張れよって思うたびに、こっちからもバックアップしないといけないって思う。アルペンやってトップ目指して自分の満足いくところまでやった選手は、セカンドキャリアの場があること、そのサポートができたらいいなって思いがあります」
第2章の戸惑いと覚悟

武田竜がアルペンから技術選にきたとき、自身の滑りと技術選の滑りの決定的な違いは、なんだったのだろう。
「僕はずっと子供のときから『ブーツの中で足首を使え、関節では一番足首が大事だ』って教わってきた。なのに技術選の1年目のときは『足首を使うな』って言われたんです。『止めて滑れ』って。なんで?って。そんな滑りしたことないし、足首を使わないでどうやって滑るんだろう?と思いながら実際やってみたけど、全然うまくできなくて。アルペンはタイムロスになるスキーのズレを許さない、切っていく滑り。足首を入れないとスキーがズレちゃうから、ズレる瞬間に体が拒否反応を起こすんです。すごい戸惑いと葛藤がありました。
アルペンの武器を持って基礎にきたのだから、やっぱり自分の持ち味の滑りで技術選を沸かせたい。そう思ったんです。
昔はトップを起点にスキーをずらして、一般スキーヤーでもできるような滑りを競うのが技術選だった。でも、技術選で次元の違う滑りを生で見せたら、スキーのすごい可能性や面白さを感じてもらうこともできるし、いろんなバリエーションの滑りからスキーの奥深さを知ることもできるわけです。指導者として一般の人に教えるときは、フィールドを下げれば教えられるわけですし。
僕は、一般の人に近い滑りを競う大会ってやる意味あるの?って思ったから、日本一を競うのなら、誰も真似できないような滑りを自分がやればいいって。勝ち負けに囚われずに、自分が得意種目でそれを見せようって思った。覚悟を決めた。それで2年目からはどんどん自分のスタイルで滑るようになったんです。

自分のスタイル? 切れ味ですかね」
驚くほど大きな内傾角をつくる深いエッジング、雪面をえぐるような鋭いターン、スピードと共存する比類なき安定性……武田竜の滑りの次元の高さ、クオリティは、「切れ味」の一言ではとても語り尽くせない。
第61回の技術選で5連覇を果たした際のダイジェスト映像がコチラ。その滑りをぜひ動画で見てほしい。
武田竜とパウダー
学生時代、佐々木明や遠藤淳平とキッカーやレールで遊んでいた、という話を聴き、編集部が聞いてみたくなったことは、やはりこれ。武田竜はパウダーを滑ることはあるのか?
「ほとんどないんです。撮影でたまたま1mとかすごく雪が降っちゃって、仕方なくそういうシーンになっちゃったときくらいです(笑)。パウダー向けのファットスキーも持ってないんです。大会が終わって、みんなで春山登って残雪を滑ろうとか、ハイシーズン、パウダーいこうよとか、誘われるんですけど、「あ、大丈夫」みたいな(笑)。いまはスキーが仕事になっていて、シーズン中はとにかく忙しいので、純粋に個人の楽しみで滑る時間が正直、持てていないんです」
編集部は、武田竜のInstagramで、この「たまたまシチュエーション」を発見!
投稿されたのは2018年の12月。コメントが興味深い。
時代を変えていく

Photo:ROSSIGNOL
「小回り・リズム変化」という種目が新しくできた年があった。2018年だ。当時は、どの選手もスキーをずらしてリズムを変えるだけの滑りで、大会もそれを好評価していた。武田竜は、そこに嚙みついた。
「大会ジャッジに『じゃここで切れ味ある深いターンとかやったらどうなんですか?』って聞いたんです。そしたら〝やれるもんならやってみな″みたいにきたので、『全然できるけど』って感じでやって見せたら、その種目1位をとっちゃったんです。
そこから、この感じでやっていったほうが自分のほうに技術選を引き込めるなって思った。手応えは確信に近づいていった。こうして時代をちょっとずつ変えていけば、アルペンスキーと基礎スキーの土台はいずれ一緒になる、と。
基礎とアルペンじゃ技術がまったく違う。アルペンをやってた人がこっちに来たら、まったく違うことをやらないと技術選では上位にいけないのが現実、それはどうなんだろう?って。おかしくないか?って。
僕らの下の世代、ジュニアたちはみんな迷っちゃうだろうなって。だから土台は絶対に一緒のほうがいいと思いながら、ずっとここまでやってきた。結果的に、いまはそうなってると思う。それは一つの目標でもあったんですよね、僕がやり続けていくことによって変えてやるんだ、という」
武田竜は、その言葉どおりのことをやってのける。
2020年から、技術選で前人未踏の6連覇。6年間、誰も武田竜の滑りを超えられない。それは単なる勝ち負けの結果ではない。“評価軸そのもの”を、自らの滑りで変えてきた証明(あかし)の勝利だ。

「変えたかった。ターンのキレ、ポジション、スピード…。アルペン魂に根差した滑りが評価されるようになった、実際に確実に変わってきたと自分でも実感できる。そのことによって、いまアルペンを追求してきた若い連中が基礎にどんどん入ってきてる。
技術選というものも変わってきている。評価軸も見え方も変わってきているし、選手たちのスタンスやマインドもそう。アスリートとして本気で勝負に賭けてます、というほうが周りに応援してもらえる。技術選を一つの目的として頂点を目指し、その成績次第でまた世界が広がっていく、その先の展開が絶対に必要だと思うんです。そうなれば、技術選は大会としても、もっといいものになると思います」
違う世界でフロントに立つ
これから先、武田竜は何をしたいのか。
「スキーって、まだまだメジャーではないと思うんです。技術選がただの選手権のままでは、ずっと変わらないと思います。だから、自分がトップであるうちは、ゴルフやサッカーとか、ほかのスポーツやメディア、いろんなところとの横の繋がりをつくって、スキーや技術選にもっと注目してもらえるように、力を尽くしたい。
そのために、〝日本一の基礎スキーヤー″という動く広告として、いろいろな違う世界に出ていって、フロントラインに立てればいい。『へぇ、そんな人いるんだ、スキーってどうなんだろう、見てみよう』と思ってもらえるように」
▼「LEON」でも紹介された
武田竜の人生の一本は、夢を叶えた一本。
それは、技術選を変えただけでなく、スキーのこれからの在り方にも繋がっていた。
武田竜—その滑りは、きっとこれからも、“新しい意味”を切り拓いていく。
Special thanks :GROUPE ROSSIGNOL㈱・㈱デサント


