裏方の美学を貫いた25年|日本アルペン史上最強チームを支えたサービスマン伊東裕樹(いとうひろき)

表彰台に立つ選手たちの背後には、常に「影の立役者」がいる。伊東裕樹(いとうひろき)―2000年代、佐々木明や皆川賢太郎らを支えるサービスマンとして、全日本アルペンチーム「史上最強」時代を築いた男。25年に渡り世界を転戦した軌跡とともに、その哲学に迫った。

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はじめに

日本アルペンスキーの歴史において、その存在なくして語れない男がいる。伊東裕樹(いとうひろき)—日本人で初めて全日本ナショナルチームの有給オフィシャルサービスマンとなり、25年にも渡り最も長く世界を転戦したスペシャリストだ。それでも決して伊東氏が表舞台でスポットライトを浴びることはなかった。しかし、その哲学に支えられた匠の技と行動が、人々の記憶に残る名選手たちを輝かせてきたのだ。

ひと声から始まった物語

伊東さんが生まれ育ったのは、北海道・上川町。高校時代はアルペンスキー選手としてインターハイにも出場し、大回転で11位という成績を残した。日本体育大学進学後、同級生のトップ選手・押切敬司からの一言が、伊東さんの運命を大きく変えた。

「YAMAHAでサービスマンをやってみないか?」1990年、YAMAHAに入社し、何も知らないままサービスマンとしてのキャリアが始まった。当時のは大高弘昭、石岡千秋、森信之など有名だったメンバーが揃い、石岡拓也や押切敬司が現役で活躍していた。

サービスマンの世界というのは極めて独特で、完全秘密主義。サポートする選手がどんなスキーを使い、どんなチューニングをしているかはトップシークレットで、世界トップのFISレースは、“情報の塊”であり、“秘密の要塞”だった。

伊東さんは初の海外遠征でノルウェーに行き、見よう見まねでYAMAHAの先輩や外国人サービスマンの技を盗もうと躍起になったが、十分な知識も用具すらない。不安のなかで奮闘の日々を送ったが、当時トップサービスマンとして知られていたガスパー・ミランにはずいぶんと教えてもらうことが多かったという。こうして伊東さんは、7年に及ぶYAMAHA時代で技術と経験を積み重ねていった。

日本初の“有給オフィシャルサービスマン”に

1998年、長野オリンピック後にジャパンチームが新体制へと移行。この頃、ちょうどYAMAHAのスキーからの撤退が宣言され、次の行く先を悩んでいた伊東さんに、全日本ナショナルチームのヘッドコーチだった古川年正氏が白羽の矢を立てた。伊東さんをジャパンチームのオフィシャルサービスマンに抜擢したのだ。日本のアルペン史上、初の「有給」専属サービスマンの誕生だ。

長野オリンピックの年から、皆川賢太郎、佐々木明、平澤岳、浦木健太ら、次世代を担う選手たちと世界を転戦する日々が始まる。

サービスマンとしてのワールドカップ転戦における活動は、選手と一緒にレース会場を移動し、レースに参戦する際のギアの手入れ、当日の雪質やコースコンディションに合わせて、いかに勝てるスキーにチューニングをするかが最大のミッションだ。選手たちはチューニングは基本、すべてを伊東さんに任せていた。

エッジの仕上げは、スラロームでは選手に関わらずビベル角0.5度、86度(ソール面に対してのエッジの角度)に仕上げている。このエッジ角86度というのは伊東さんが経験を重ねた上で導き出した日本の選手に理想の角度。選手の滑りや雪質でエッジ角を変えるのは得策ではない、という考えで、これはこれまで貫いてきた伊東さんの信念でもある。

ちなみにW-CUPシーンに長年王者として君臨し、前人未踏の大記録を打ち立てた絶対王者マルセル・ヒルシャーのエッジ角は85度という情報を得たことがあり、これには伊東さんも驚いたという。なぜなら、十分なパワーがないとグリップ力が強すぎてエッジが引っかかり、思うようなスキー操作ができない角度だからだ。わずか1度でスキーのコントロールに大きな違いが出る、まさにコンマ0.1秒を競うスピードの世界ならではの戦略の凌ぎ合いというわけだ。

伊東さんが当時サポートしていた選手の一人
浦木健太氏が尋ねた

ここからは、伊東さんが当時サポートしていた選手の浦木健太氏にインタビュアーとして登場してもらい、当時を懐かしみながら対話してもらった。浦木氏は現在、オーストリア在住。KASTLEスキーの日本総代理店㈱エクスパンダ代表でもある。一方、現在の伊東さんは㈱ゴールドウインに勤務し、FISCHER直営店の「FISCHER TUNING BASE」でアドバイザー兼ディレクターを務めている。こんなふうに神田とインスブルックをオンラインで繋いで…。

日本アルペン史に名を残す活躍を支えた

(浦木)―伊東さん、サービスマンとしての活動は何年間されていたんですか?

「25年強ですね。毎シーズン普通で200日、多いときで250日くらい海外生活でした。それぐらいやらないとね、なかなか結果に繫がらないというのが現実でしたね」

―伊東さんといえば誰よりも長いキャリアと強い選手を育てたサービスマンという印象が強烈なのですが、1998年にジャパンチームのオフィシャルサービスマンになって、賢太郎や明のサポートはいつから始めていたんですか?

「長野オリンピックが終わって、次の2002年のソルトレイクシティのオリンピックまでの4年間は賢太郎をメインにやっていました。長野での賢太郎は、粗さが目立って思うようなレースにならなかったけれど、2000年のキッツビューエルで6位に飛び込んできた。それも優勝したマリオ・マットに1秒38差という素晴らしい内容だった。確信していた賢太郎のポテンシャルの高さからしたら、その結果は当然だし、まだまだこんなもんじゃないって思っていましたね。

その頃、明が大学をやめてオーストリアのインスブルックに拠点を移して一人で生活し始めた。そこへ僕が行ったので、2001年からかな、明との付き合いは」

―明がウェンゲンのW-CUPで2位という結果を出したのは2003年でしたね。

Akira Sasaki (JPN), JANUARY 19, 2003
FIS World Cup Men's Slalom in Wengen, Switzerland. (Photo by AFLO)

「このときの明は、1本目タイムがラップをとったロッカやクロアチアのコステリッチの0秒57差と大きな差をつけられての7位だった。けれど2本目は明がノーミスでラップライムを叩き出した。それもロッカには0秒53の大きな差をつけていたんです。1本目がトップ差0秒5以内につけることができていたら優勝してた。そうなっていたら日本アルペン界は、いまと違っていたのかもしれないね」

―けれど明のW-CUP2位3回や賢太郎の入賞と、伊東さんが支えた選手が日本のアルペン史にその名を残す活躍をした。

「そうだね。選手たちの頑張りはすごく嬉しかったよね」

伊東流・選手たちとの関わり

―サービスマンと選手ってすごく近い存在ですよね。信頼関係を築くのがすごく大事だと思うんですけど、思うような結果が出ないときって、選手は落ち込んだり、ふてくされたりしますよね。そんなときは伊東さんは選手たちとどう接していたんですか?

「いろいろ考えましたよ。例えば賢太郎は宇多田ヒカルの唄が大好きだったから、車に乗る時間には彼が好きな音楽がちゃんと流れるように準備して、モチベーションをあげて練習に行けるように環境を考えたり。もちろん喧嘩もしたしね。
「そんなくだらないことでクヨクヨするな、スキー下手なんだからしょうがねぇだろう、もっと練習しろよ」とか(笑)。僕も若かったから、気の利いた言い方もできなくて、直球しか投げられなくて。

でも、サービスマンとしてスキーの準備は万全にしておいてあげたかった。だから調子の悪いときは、『今日もダメか…』じゃなくて、『お! 今日スキーの調子はいいぞ』って思わせてあげたいじゃない。だから雪質とか練習環境を前もって頭に入れてチューンナップもするし、どこが問題なのか一緒にビデオを見て研究したり。調子がよくなるようなキッカケを常に意識して接していたよね」

―サービスマンの役割は、チューンナップだけじゃ全然ないってことですよね。環境づくりや選手にかける言葉の一つひとつだったり、さまざまなこと。ほぼ24時間選手と一緒にいるんですもんね。

「うだね、でも根本的にプロ意識の強い選手が多かったから、やっぱり理解力が高かったよね、そうやって心を込めてやってあげると。そこに選手がいかに気づくかだよね。そこが大事なんだと思う」

―僕も選手をやっていたから、いま改めてわかるんですが、ちゃんと長期的な目標が明確にあれば、今日の結果とか関係なかったんですよね。むしろ、うまくいかないことからの学びのほうが大きかったはずですよね。そこに気づけるかどうか。そのメンタリティを持てるかがすごく大事なんだけど、ほとんどの選手はそれができないという事実もありますよね。実際、僕もそうだったし(笑)。それに身近で気づかせてくれるような人が、優れたサービスマンなんだなって、いまならそう思えますね。

「サービスマンって選手をよくするためにいるものだからね。僕はたまたま長くやれて、けっこう周りから「おまえはラッキーだよな、いい選手につけたから」って思われてる部分もあるかもしれないけど、賢太郎も明にしても一時は成績も出なくて落ち込んだ時期もあった。それを、キッカケをつくって上にいけるように考えてサポートしてたってことも、彼らが世界トップで戦えた背景にはあったと信じてる。賢太郎の不調ときは、どのレースに出るべきか、スキップするべきかの判断も、一緒に考えていたな」

―それも傍で長期的な目標を持って支えるから、的確に判断できたってことですよね。賢太郎も明も本当にいい選手だったと思うんです。そこには伊東さんの支えも大きかったんですよね。

Photo:Shinichiro Tanaka

賢太郎と明

―根本的に賢太郎と明は、他の選手たちと何が違ったんでしょう。

「圧倒的にプロ意識が高かったよね。性格は二人とも全然違ったけれど、『日本一で当たり前、自分がW-CUPで目指すところに立つ』っていう思いは、二人とも尋常じゃないくらい持ってた」

―僕も選手時代、二人とも在籍が少し被っていた時期がありましたけど、あの二人は確かに全然違ってましたね(笑)。「俺は絶対に世界一になる、そのためにはいま、何をしなくちゃいけないか」って動いていたと思う。明はむしろ「世界一にならなきゃ意味ないでしょ」くらいにがむしゃらにやってたと思うし、それくらい強い気持ちを持っていたと思う。本当に強くなるには、そういった気持ちをいかに持てるか、そして親や小さい頃のコーチとか、周りが、いかに導くかで、違ってくるんだと思います。
当時の日本チームって何がよかったんでしょうか。あの強さには、個人の実力だけじゃない何かがあったんじゃないですか。

「必ずキーマンがいるよね。そういう選手たちの周りには。当時、そうだなぁ、スタッフみんな仲が良かったよね。選手同士が仲が良かったかはちょっとわからないけど(笑)サービスマンとトレーナーとコーチ、それをまとめていた児玉修さん、山中茂先生、村里俊彰さんがいて、常にコミュニケーションがとれていたし、何か問題があればみんなで相談をしていた。メーカーの新製品の開発テストもやらなくちゃいけないなかで、メーカーとも協力したり、時間があればコースの水まきもしたし、みんなそれぞれいろんなことに関わっていて、まとまっていたよね」

―僕、当時の伊東さんのことでよく覚えているのは、いつも夜、ホテルのバーでみんなで呑んでましたよね。ああいう時間がすごくコミュニケーションとして大事だったんですよね。チームスタッフの絆が強かったんだなって感じます。

「お酒が入ってるせいかもしれないけど、お互いキツイことも言うし、言われるし。賢太郎や明も10代でやんちゃなところもあったから、コーチたちに食い付ていくこともあった。するとコーチから「おまえがもっと選手たちをしっかり管理しろ」とか言われたこともあったし。でも、ああいうのがとてもよかったんだと思う。ぶつかりながらもいろんな情報も共有できるしね。表面的な関係じゃなくて、もっと深いところで関わっていて。それも、ただひたすら選手を強くしたいから真剣だった」

何より、こころの通い合う信頼関係を大切に選手と世界で戦ってきた伊東さん、当時の選手たちとの絆はいまも繋がっている。

いまでも佐々木明氏のスキーをチューニングすることも
現役を続けている佐々木明氏のことはいつも気にかけている
大会応援にも出かける

サービスマンは情報が命

―サービスマンは選手のスキーをチューンナップするという作業以外にも、当時から世界のなかで情報戦みたいな部分はすごかったですよね。

「そうだね、W-CUPに行けばいろんなサービスマンと呑みにいかないといけないし(笑)、どのサービスマンがどこにいるかはだいたいわかっているから、情報をとるために、わざわざそこに行って呑んだりもしたね」

―僕もジャパンチームのヘッドコーチをしていたことがありましたけど、やっぱりコーチもそうでしたね。選手たちはやることがたくさんあるし、山の上で交流するくらいですけれど、スタッフは外でも情報収集して、選手の強化やチームに反映するってことが、すごく大事でしたよね。

「そうだよね。海外のトップ選手が使っている板を明に試合で履かせるために、機密情報を入手して走り回ったりもしたね」

―僕らのインターネットもない時代では、何もわからないけど、考えられるベストを尽くすみたいにやっていましたけど、いまなんて昔に比べれば情報が簡単に手に入るようになっていて、これだけ情報があるわけなので、情報をしっかり取り込んでよりよい方法が見つかるはずなんで、これからの選手たちもどんどんいい方向にいくといいなと思いますよね。

「そうだよね。選手育成に関しては資金という問題は常にあるんだけど、でもいまは情報量は絶対に多いんだから、正しい情報を自分でちゃんと見出して、それをうまく活用していけば、世界で戦える選手にだってなっていけるんじゃないかなって思う」

伊東さんの技に会える場所

25年という長きに渡り海外のFISレースを転戦した後、現在、伊東さんは東京のスキータウン神田にあるFISCHER直営の「FISCHER TUNE BASE」で、テクニカルアドバイザーとして、その匠のチューンナップテクニックを発揮している。

店内にはFISCHERのスキーやブーツがディスプレイされ、ギアの購入も可能で、もちろんチューンナップサービスが多彩なメニューで受けられる。伊東さんにマイスキーをチューンナップしてもらうなんて贅沢も可能だ。店には佐々木明氏もよく顔を出しているとか。

先日、遠征に出かける前に「FISCHER TUNING BASE」に立ち寄った佐々木明氏

「やはりプロによるチューンを施すことで滑りが大きく変わってきます。自身の技術レベルはもちろん、どんな雪を、どんな山を、どんなふうに滑るのか、その志向によってチューニングはさまざまです。ぜひ試してみることをおすすめしますよ」

自分のスキーに最高級のチューンナップを施したい人はもちろん、いまアルペン競技を追いかけているレーサーやFIS W-CUP観戦が好きで往年の選手の話を聴きたい人など、ぜひ伊東さんに会いに「FISCHER TUNING BASE」を訪れてみては。常に忙しい伊東さんだが、運が良ければ話を聴けるかもしれない。

FISCHER TUNING BASE

東京都千代田区神田小川町1-8-8 VORT神田小川町ビル1F

営業時間
11:00〜19:00 ※定休日:毎週水曜日
TEL 03-6260-8555

FISCHERブランドを専門的に展開する日本初の空間として東京・神田に登場。コンセプトはたくさんの人々にスキーをもっと快適に気軽に楽しんでもらうため、「質の高い技術」「知識とサービス」「幅広い情報」を提供できる基地であること。 FISCHERの最新・全モデルを揃え、スキーチューンナップやメンテナンスサービスを製品購入とセット利用できるなど、ブランド直営店ならではの特典も豪華だ。

プロフィール

伊東裕樹 Hiroki ITO

北海道出身。日本体育大学卒業後、ヤマハのサービスマンから全日本アルペンナショナルチームの専属サービスマンへと転身、FIS国際大会を25年に渡り転戦。日本アルペン界を支える存在として名選手を育て結果を残す。その後(株)ゴールドウインに所属し、現在は、東京・神田の「FISCHER TUNING BASE」においてアドバイザーおよびディレクターを務め、チューンナップ技術の指導と現場経験を活かしたサービスを提供している。

取材協力:㈱ゴールドウイン|ケスレスキー日本総代理店/㈱エクスパンダ代浦木健太

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