志賀高原で生まれ育ち、学生時代はアルペン競技で世界を転戦。その後、基礎スキーに舵を切り、2021年全日本スキー技術選手権大会では頂点に立った春原優衣(すのはら ゆい)。そして'23-24シーズンで現役を引退。彼女のスキー人生では華々しい成績が目を引くが、その栄光の裏にはいくつもの困難や分岐点があった。スキーヤー春原優衣の競技人生を振り返りながら、「人生を変えた一本」の真意をたどる。
技術選への挑戦
「“人生を変えた一本”って聞かれると、素敵なエピソードを期待されているのかなと思うんですけど……私の場合、正直、そういうのはないんです」
そう語りながら、春原は大学4年時の一本を思い出す。
当時アルペン競技の選手として活動していたが、シーズン初めの中国でのレースの際、前走で転倒し、内側側副靭帯と足首の靭帯を損傷した。すでに教員への内定も決まっており、大学4年生のシーズンをもってスキー競技から退くつもりだった春原にとって、この怪我はまさに予想外の出来事だった。
「ケガをしたことでFISレースには出られなくなったんですが、“3月の技術選なら出られるかもしれない”って。このケガの前から『技術選に出てみないか?』と学連の予選で声をかけてもらっていました。予選は熊の湯スキー場でやっていて、ちらっと見てはいましたが、当時は”なんかやってるな〜”という感じで、そこまで興味はなかったのですが……中国でのケガがなかったら、本格的な技術選への転向はなかったかもしれません。」
「ずらしのテクニック」に苦戦した日々
大学時代はレースを主戦場としていた春原だが、技術選に転向した当初は戸惑いもあったという。
「レースは速い人が勝つので、見た目がかっこよくなくても速ければいい。でも技術選は、見てくれる人たちが『すごいな』『感動するな』と思える滑りをしないといけない。そこが大きく違いました。当時の私には、正直理解できなかった部分もありましたね。」
特に、技術選で主流だった「ずらしのテクニック」には苦戦したと振り返る。
「レーサーにとって『ずらす』という概念がなかったので、どうやってスキーをずらすのか、円を描きながらスキーを回し込む技術がすごく難しかったです。」
その後、猪又一之氏(元全日本技術選チャンピオン)など多くの指導者から教えを受け、技術の習得に励んだ。

「未だに自分の滑りと理想が一致したな、という感覚はないんです。勝ってもそうですが、やはり追っていかなくちゃいけないこと、やらないといけないことがたくさんあって、スキーは奥が深いなと感じています。」
そう語る春原だが、彼女の滑りには安定感に裏打ちされた表現力がある。女子選手では長身な春原だが、そのリーチを活かし、どの種目においても滑りが崩れない、安定したパフォーマンスが魅力のひとつだ。"春原優衣といえばロングターン"といった、安定感から生まれる力強さや滑りの美しさは、まさにお手本の滑り。その美しい滑りから、全国のスキーインストラクターたちの教科書ともいえるSAJスキー教程の滑り手として採用された実績の持ち主だ。
自身の経験から、一般のスキーヤーへのアドバイスも忘れない。

「自分たちがやりたい滑り、目標とする滑りがあると思うので、そこを常に追求し続けること。色々な人に滑りを見てもらって、色々なことを言われることもあるでしょう。それでも、最終的に自分が何を表現したくて、どんな滑りをしたいか。そこを明確にすることが大事だと思います。人の言葉に惑わされないように、自分のやりたいことと常にすり合わせをしていくことが大切です。」
教員との二刀流、そしてプロへの覚悟
大学卒業後、高校の体育教師として働きながら技術選に挑戦するという「二刀流」の道を歩んだ。
「2015年に初めて表彰台に乗ることができたのですが、当時は働きながらでした。働きながら表彰台に立てるまで成長できた、ということにとても印象深さを感じました。」

公立高校の教員として多忙な日々の中でもスキーに打ち込む春原を、同僚たちは温かくサポートしてくれたという。授業の調整や大会期間中の休みの確保など、周囲の理解がなければ両立は難しかったと振り返る。
「土日しか自分の練習時間がなく、その土日も部活動などで潰れてしまうこともありました。だからこそ、その一日一日をすごく大事にして、集中して練習していましたね。当時、『プロスキーヤーには負けたくない』という気持ちがあったんです。サラリーマンでもできるんだぞ、という強気な気持ちでやっていました。」
その後、異動をきっかけに、春原は大きな決断を迫られる。生徒と関わる仕事から事務的な仕事へと変わり、スキーに打ち込める環境ではなくなってしまったのだ。周囲の反対を押し切り、安定した公務員の職を捨ててプロスキーヤーの道を選んだ春原に、後悔はなかったのか。
「後悔したとか、しなかったとか考えた事はなかったです。自分が選んだ道だから、選んだ道を正解にする行動をするだけだったし、どんな結果になっても、受け入れる覚悟はできてました。選手を引退した今も、後悔と言う気持ちはまったくありません。」
「"優勝"と向き合うことが怖くなった」――引退、そして新たな挑戦へ
輝かしい成績を収め、多くのファンを魅了してきた春原だが、引退のきっかけは単一ではなかったという。引退発表をしたインスタグラムでも語られた、自身の病気も要因の一つだが、それ以上に「"優勝"と向き合うことが怖くなった自分」が大きかったと明かす。

「優勝できたものの、次の年に連覇できなかったんです。その時にかなり心が折れてしまって。連覇できなかった自分に、です。その時点でもう引退がちらつき始めていました。」
当時の技術選の方向性の変化も、春原の葛藤を深めた。
「自分の技術や見られている観点と、だんだん噛み合わなくなってきて、自分がやりたい滑りが分からなくなってしまったんです。当時の技術選は、技術より勢いのある滑りがすごく目立つ傾向にあって、それが私のやりたい技術選とはちょっと違うなって感じていました。
私は負けず嫌いなので、いつも勝ちにこだわっていたい。だから、それができなくなった時が引退のタイミングだとずっと思っていて。勝つことにこだわれなくなる前に、自分で引退しようと決めていました。」

2023-24シーズン、最後まで優勝という目標を追い続けるため、病気や引退を宣言せずに戦うことを選んだ。最後の全日本でも引退を誰にも告げず、今できる滑りを精一杯表現した。結果は3位と目標には届かなかったが、このシーズンをもってアルペン競技19年、技術選15年、計34年間のスキー競技生活に終止符を打った。
選手よりも緊張した、初の全日本ジャッジ
引退を発表し、翌シーズンの全日本技術選。春原は出場選手としてではなく、ジャッジとして審査員席に座っていた。
「事前に『ジャッジとして協力してくれませんか?』と連絡を受けました。一応断ることもできるのですが、これまで選手としてやってきて、ジャッジってどういう気持ちで点数をつけているんだろうと興味はありました。その立場を経験して、これまでやってきた15年間を受け入れようと思って。あと、声かけてもらえるうちが華がある、じゃないですけど(笑)」

まだジャッジは早すぎるかもしれないという気持ちもあったが、ついこの間まで現役だった利点を活かし、選手の気持ちがわかるジャッジとして、引退後初の全日本に挑んだ。
「本当に選手の時よりも緊張しました。ジャッジの席から見るコースは選手時代に見ていたものとは全く違いましたし……現役の時、もっと自由に滑っていたら点数のつけられ方も違っただろうな、と思います。」
ジャッジとして多くの選手の滑りを見て、選手一人ひとりの表現に感動したという。
「全員に100点をつけたいくらいです。選手の時もコースを下から見ることはたくさんありましたが、その時とはまた違った感覚というか。ここでしか見えないものがあるんだなって思います。それが何なのかは、まだ経験が浅いのでわかりませんが(笑)」
今回の全日本技術選のジャッジを振り返り、特に印象に残った選手として女子の大場朱莉選手を挙げ、「彼女のタイガーのロングターンは抜群だった」と絶賛した。

「彼女はアルペンの時から憧れです。その頃からロングターンが抜群に上手いんです。今回もダイナミックな滑りに鳥肌が立ちました。スピードもタイミングもばっちりで、朱莉さんの良さが全面に出ていたと思います。」
ついこの間まで同じように選手として戦ってきた。だからこそわかることも多かった。
「点数をつける、ということは選手に寄り添いすぎちゃいけない。でもそこは自分を殺さないと、点数を打つロボットにならなくちゃと思いました。その人の良さが出ていると点数打ちやすいのですが、そうでなかった時は、ごめんなさい……と目を瞑りながら打つこともありました。ミスをしてしまった彼らの気持ちもすごいわかるんです。
はじめての全日本ジャッジは楽しかったし感動もたくさんしたけれど、やっぱり苦しくて寝込みそうになりました。」
人との出会いは人生の宝

技術選プレイヤーとして活動する傍ら、SAJナショナルデモンストレーター(通称 Nデモ)としても活動をしていた春原。デモンストレーターとは全国のSAJ公認のスキースクールに勤務するインストラクターの先生ともいえる存在だ。先生の先生として、研修会を行ったり、スキー技術の向上を行っている。
「私にとってデモンストレーターは、いろんな人と出会うきっかけになってくれました。もともと長野在住なので、他のエリアに行くこともなかったのですが、デモンストレーターになると全国の研修会をまわったりします。私はあえて鳥取とか広島とか、遠方を希望して行かせてもらいました。Nデモになったおかげで自分を知ってもらえる機会になったり、普段なかなか行けない場所に行けたり、Nデモという立場を使って多くの人に出会えることが多かったです。
私にとって『人との出会いは人生の宝』だと思っているので、そのきっかけをNデモになったことでもらえたのが一番良かったです。」
Nデモとして携わる研修会では、現地のブロック技術員や先生たちから学ぶことも多く、自分を育ててくれたのは、そうした現場にいる“本物のプロ”たちだったと語る。

「全国をまわると、現地のブロック技術員とか専門の先生たちのほうがよっぽど経験値が高くて、この人たちと一緒に研修していくっていうなかでもすごく勉強させてもらうことも多かったですし、皆さんにこの春原優衣を作ってもらったっていう感じがします。自分でこの立場を掴んだって感じはもう全然ないですね。」
そして春原には欠かせない戦友たちがいる。栗山未来(写真左)と青木美和(写真中央)のふたりだ。

「年齢も違えばスタイルも違い、常に優勝を狙うライバル同士でした。けれども互いにリスペクトし合い、誰が勝っても称え合える関係でした。デモンストレーターとしても、選手としても支えられることが多く、本当にふたりに出会えてよかったなと思っています。
この3人の中で一番年下の私が先に引退することになってしまったのですが……今もなお、デモとしても選手としても第一線で活躍し続けているふたりを心からリスペクトしています。」
これまで全日本で4度の優勝を誇り、小柄ながらもスピード感にあふれたキレのある滑りが持ち味の栗山未来。第59回大会ではすべての大回り種目でラップを記録するなど、大回りに定評のある青木美和。それぞれ独自のスタイルでファンを魅了し続けてきた3人は、互いのSNSにもたびたび登場するほど仲が良く、競技を超えた強い絆で結ばれている。
未来へつなぐ、これからの挑戦
34年間にわたるスキー競技生活の中で出会ってきた人々や学び。春原は、今度はそれを“与える立場”として活かしていきたいと語る。
「これまでの現役生活でたくさんの人に出会って教えてもらって、だから今の私がいると思っているので、これまでやってきた経験やつながりを切っちゃいけないな、もったいないと思っています。だからこそ、この経験を次世代に良いカタチで繋げていきたいという思いはあるので、指導者として技術選を教えていくのもそうですし、選手や指導者を育てていくような、次は与えられる人間になりたいなと思っています。具体的にはまだないんですけど、そういう風に活動していきたいですね。」

春原優衣が歩んできた道は、順風満帆ではなかった。むしろ、不意のケガや選択の連続だった。しかし彼女は、そのたびに前を向き、覚悟をもって進んできた。そしていま、自らの経験を携えて、次なる一歩を踏み出そうとしている。
Profile

春原優衣 Yui Sunohara
長野県山ノ内町志賀高原出身。TRI.INCスキークラブ所属。アルペンスキーでは、全国・FIS・海外レースなど、優勝・入賞多数。その後基礎スキーへ転向。
2021年全日本スキー技術選手権大会総合優勝。2018年から2025年までSAJナショナルデモンストレーターとして活躍。2019年および2023年インタースキーに日本代表として出場。
Sponsors:TRI.INC / TATSUMITECH、東和会グループ / 東和会クリニック、タイヤサポート長野、生垣溶接工場、FOR-T BOOT FITTING、COREFOCE、株式会社漢方こうのとり、BRISAMARINA
Instagram:@yui_sunohara

