Photo/Go Ito
「前編」はコチラから
【Profile】
下村雄太●しもむらゆうた
1993年、北海道喜茂別町出身。2歳でスキーを始め、アルペンとクロカンの競技をスタート。中学高校ではクロカン選手として全国中学校スキー大会やインターハイに出場。倶知安高校2年時にバックカントリースキーに目覚め、妙高の国際自然環境アウトドア専門学校に進学。卒業後は白馬のカラースポーツクラブに所属してテールガイドを務めつつ、ライダーとして撮影やトリップ、フリーライド大会に出場を続けている。
いつかは正式にスキーガイドの仕事を、
でも、今はひたすら滑りを突き詰めたい
──それで卒業してカラースポーツクラブに
正確には専門学校3年生の冬からです。スタッフとして来ないかと夏の間にトネさんから連絡をもらっていたんです。それで3年生の冬からはスタッフとして迎え入れてもらって、学校とカラーのツアーを両立させながら1シーズンを過ごしました。
カラーでは3年以上働くにはリードガイドとして務まるスキルが必要です。最初からリードガイドを目指す方向で考えてほしいということですよね。
──へぇ〜、そんな約束事があったんだ。
ただ僕の場合は、カラーで働くうちに正式なガイドを目指すのはもっと先だと思うようになりました。カラーで働きながらガイドの勉強を重ね、同時に滑り手として自分の滑りを突き詰めるような活動がしたかった。なので、トネさんにそのことを相談して理解をいただき、テールガイド中心に6シーズンを過ごしてきました。
──滑りを突き詰めるって、具体的にどう考えたの?
大輔さんや、白馬に来た時からお世話になっている大池拓磨さん(※16)ように、滑りで表現できるようになること。そのためには、まずは最低でもシーズン中1カ月は海外に滑りに行き、日本にないような急斜面をローカルに混ざって滑り込む。それが上手くなる秘訣じゃないかなと。
「日本で落ち着いていちゃだめだ。上手くなりたいなら海外に出て、ローカルと滑り込むのが一番」。そう和哉さんからも言われていました。「だから旅はひとりのほうがいいし、そのほうが濃いスキーライフを送れるから」と。
──古瀬和哉の影響も大きいんだね?
そうなんです。それもあって専門学校2年生の夏にはニュージーランドに行きました。それもクイーンズタウンやワナカではなく、和哉さんの影響でクラブフィールド(※18)のブロークンリバーにたったひとりで2週間です(笑)。
──いい先輩たちに恵まれているね。
いやもうホントにそうです。口だけじゃなくて、みんな滑る姿勢を背中で示してくれる。自分のこれからの道筋を導いてくれてホントにありがたいです。
──そもそもの話なんだけど、ガイドを目指した高校卒業時、周囲はどんな反応だったの?
「お前、ホントに大丈夫か?」って同級生には言われましたし、先生からも「そんな好き勝手に遊んでうまくいくほど人生は甘くない」と。でも、一度きりの人生なので、好きなことをしないと損をすると思ったんです。
──10代で、よくそこまで振り切れたね?
好きなことして暮らしている人が実際にいるってことは、自分だって可能性くらいはあると思ったんです。看護師の母から、医療系の仕事に就けば収入は大きいし将来安定だよと勧められました。でも、僕としてはお金を稼ぐことよりも、自分が満足できる生き方に魅力を感じていたので……。もしだめだったら、そのとき就職すればいいやと。そんな甘い考えもあったんですけどね。
──両親はよく許してくれたね。
専門学校に行きたい一心で、一カ月間、ひたすら頼み続けた成果です(笑)。ただ、父は最初から賛成してくれました。北海道出身なんですがスキー好きで、もともと滑る環境に身を置くために、喜茂別に家を建ててレストランを開いた人。以前はニセコの山本由紀夫さん(※18)と一緒にテレマークスキーをやっていたそうです。
──それはすごい! 極めて正統派じゃないか。もともと雄太君にはそうした資質が備わってるんだろうね。
母によく言われます。お前は父さんの血を受け継いでいるって(笑)。
──そのうえ、看護師さんと結婚するというスキーバムの完成形スタイル。
はい。「STEEP」で児玉毅さんのインタビューを読んだとき、同じことを思いました。ウチの父を見ていてもよくわかりますよ。好きなことやって暮らしていけたのは、相方に恵まれたんだなって。
※16 [大池拓磨さん]
北海道生まれ白馬在住のフリースキーヤー。カラースポーツクラブでテールガイドを続けつつ、ライダーとして映像や写真を残す。3年間通い続けた南米ノースパタゴニアへのトリップは見事。詳しくは「Fall Line 2020 vol.2」で
※17 [クラブフィールド]
営利を目的とせず、滑り手が造って滑り手が管理するスキー場がニュージーランドには数カ所ある。チェアリフト代わりに独自の骨太ロープトゥが架かり、圧雪車もなくほぼほぼ未圧雪。自然のままの地形をワイルドに楽しめる
※18 [山本由紀夫さん]
かつて、ニセコでロッジとプロスキースクールを開いていたレジェンドスキーヤー。日本に入ってきた当初からテレマークスキーの普及に尽力し、テレマークスキー界では正真正銘のレジェンドとして尊敬を集めている
ローカルの家に居候して、ヒッチハイクでスキー場に通う。
それが海外バムスタイル
──海外トリップはどこへ出かけたの?
最初に行ったのはニュージーランドのクラブフィールドで、冬はアメリカ。ユタ州ソルトレイクシティのスノーバードとアルタに3、4シーズン。そのあとは、やっぱりアラスカに行きたいなと思ってガードウッドに3シーズン。毎年2月まではカラーで仕事をして、3月から行かせてもらっていました。だいたい毎年3、4週間くらいです。
──なぜソルトレイクシティだったの?
昔スノーバードローカルだった先輩から、ローカルの友人を紹介してもらったんです。「日本人も少ないし、超コアだから行ったほうがいいよ」って。調べて見たらTGR(※20)のメンバーにもソルトレイク出身が多いし、もうココだなと。
──どんなスキー生活だった?
スノーバードに上がっていくキャニオンの入口近くにあるローカルの友人の家に居候させてもらって、ヒッチハイクでスキー場に通ってました。スノーバードは高級リゾートだから基本的にリフトパスは高いんですが、スプリングシーズンパスが25歳以下はめちゃくちゃ安いんですよ。それを毎年買ってました。
──英語はどのくらいできたの?
ほとんどできなかったんですが、いちおう、ざっくり聞き取るくらいはできて、かろうじて自分の意思を伝えられるかなという程度です。スキーや山の話はなんとかなったし、あとはまあ、ビールを飲んで酔いにまかせて……。それでなんとかコミュニケーションは取れました。行けばなんとかなるというか、行ったモン勝ちですね。
──アラスカ・ガードウッドでもローカルの家に居候?
もちろんです。これまた同じく、昔スノーバードローカルだった先輩の紹介です。そのローカルはスノーボーダーなんですが、フリーライド大会で世界を回っていてアリエスカの大会に来たときに、ココに住もうと決めたらしいです。滑りに対してめちゃくちゃ熱い滑り手で、以来ずっとお世話になってます。
──向こうに着いて部屋を探すの? それとも日本にいるときに?
日本からメールでやり取りしておきます。その友達も日本に来たことがあって、そのとき、たまたま会っていたので話は早かったです。
その部屋がまたコアで、ゲルに住んでいるんです。「ここはお前の家だと思って、いつでもいていいから」って。食事に行くときは僕が少し多めに支払うくらいで、部屋代も取ってくれない。逆に彼が日本に来たときには、僕があちこち案内して全部接待する。そういうエクスチェンジがバムたちの間でのお約束というか、暗黙の了解なんですよね。
──アラスカではどこを滑っていたの?
ハッチャーパスとかターナゲンパス(※20)を滑っていました。基本ハイクで、たまに友達のスノーモビルを借りたり。あとはアリエスカのスキー場です。移動は友達のクルマを借りたりとか、ローカルに助けられながらですね。
──ヴァルディーズ(※21)には行った?
いや、行けなくて。実は今年は別の友達が「今度、キャンピングカーでヴァルディーズに行こうと思ってるんだよね」って言うので、そこに同行しようと思っていたんです。あのへんで1カ月くらいキャンプして滑りまくる予定で。でも、残念ながらコロナでボツになっちゃいました。
──では、ヘリには乗っていない?
それがですね、2シーズン前に夢のような経験をしたんです。そのアラスカで居候させてくれている友人がアリエスカリゾート&ホテルの鮨店で働いている寿司職人で、彼がアリエスカのオーナーと知り合いだったことで、なぜか僕までヘリスキーに誘ってもらえたんです。そのオーナーは自家用ヘリを持っていて、チュガッチパウダーガイドも一緒に乗って、1日20本くらい滑りまくりです。すごいドリームでしたね。
そのシーズンは記録的な暖冬で3月は雨ばかり。1カ月行ってスキー場を滑ったのも合わせて7日間しか滑れなかったんです。もうダメかと諦めて帰国する2日前に、そんなあり得ない夢のような話が舞い込んできて、涙を流しながらヘリに乗りました(笑)。
※19 [TGR=ティトン・グラヴィティ・リサーチ]
ご存じ、フリーライドムービープロダクションの雄。MSPと並んで90年代後半以降のスキーシーンをリードし続けている。制作チームはジャクソンホールローカルが中心で、アラスカでの大々的な空撮の草分けでもある
※20 [ハッチャーパスとかターナゲンパス]
アラスカでチェアリフトの架かったスキー場はアリエスカのみ。ロープトゥの小さなゲレンデはいくつかあるが、人気は「Ski Area」という看板があってもリフトのない自然のフィールド。この2つの峠も人気のメジャーエリア
※21 [ヴァルディーズ]
「ザ・ラストフロンティア」と呼ばれ、多くのスキームービーの舞台となった元祖アラスカンスティープがここ。超格安だったヘリをタクシー代わりに飛ばせたという伝説のエリアは、現在複数のヘリガイドカンパニーが営業中
現在27歳のフルタイムスキーヤー、
下村雄太はこれからどうする?
──さて、いよいよ最終章、これから先のスキーライフに話は移ります。
最初にお話したように、今年の夏は山に上がらず、街で過ごして自分を見つめ直そうと思ったんです。というのも、この道を選んだのは高校生のときで、そのとき自分なりに覚悟を決めていたところがありました。それは、定職にも就かずに滑りを突き詰めたいと同時に、30歳までにはひとつのカタチにしないといけないと。それが僕の頭のなかにずっとあったんです。だから、27歳になる今年の夏は地に足を付けて、自分の考えをまとめる時期だと。
──なるほどね。雄太君の話を聞いていると、成り行きや現実逃避からスキーバム生活を選んだわけではないことがよく理解できるよ。目的志向的だし、ポジティブで、向上心のかたまりだし。
ありがとうございます。僕、こういう活動を続けているなかで、滑り手の表現ということをすごく考え始めた時期がありました。もちろん、被写体として写真や映像を残すのはひとつの表現のカタチですが、でも、それだけじゃないなと思い始めていて、自分なりの、自分にしかできない表現ってなんだろうと探ってきたんです。
そのなかで、たとえば自然のなかで感じたエネルギーだったり、雪山の気持ちのいいバイブスを直接人に伝えること。それもまた、滑り手としての表現になり得るなと思い至ったんです。
僕は人と接することが好きなので、これからも人と直接関わっていきたいし、高校生のときにスプラウトというコーヒーショップで新しいスキーの世界が開けたように、僕もなにか人のきっかけになることを生み出せる人になりたい。そう考えたときに見えてきた道のひとつが、自分の店を開くということ。そうした表現もアリだなと。
──自分の店を開く?
喜茂別の実家がレストランで、今も営業はしているのですが、数年前に父が病気になって以来その父の店を今後どうするかということがずっと頭の片隅にありました。ただ、父が体を壊したから店を継ごうというわけじゃなく、僕自身が自分のお店を持ちたいという想いが強くなったからです。人が集まりやすい場所を作りたいという思いがあります。
なので、店を改装してカフェにするというプランです。すぐにということではなく、じっくり構想中ということで。もちろん、スキーは今まで通り攻め続けますよ。それに、実はまだあまり北海道を滑っていないので、その点でのモチベーションもふつふつと沸いています。
──なるほどね。
喜茂別ってあまり印象に残らない街なんですよ。農家が多くてアスパラが有名なんですが、僕自身もそうでしたけど、街から離れていく若者も多いんです。滑り手にとっては千歳空港からルスツ、ニセコに行くときの交差点のようなイメージしかないと思うし……。
──そうかな。それほど印象は悪くないと思うけど。スキーバム的視点からみれば、ニセコは高くて住めないけど、喜茂別ならリーズナブルに暮らせそうだし、ニセコもルスツも札幌も千歳空港にも行きやすい。
そうなんですよね。近くに尻別岳も羊蹄山もあるし、空気もおいしく、土地もよくて川もいい。その自然環境のポテンシャルが生かし切れてなくて、もったいなさすぎると思っているんです。ならば、僕が今までやってきた経験を生かせる場も多いだろうし、喜茂別のキッズたちにも土地で遊ぶ良さを伝えたい。そうやって地域を盛り上げていきたいという気持ちが強くなっています。
──そうなると白馬を離れるということになるけど、悔いはないの?
悔いは……もちろんあります。今なお惹かれることばかりですからね。ただ、気がついたのは、この遊びはいくらやってもやり切った感は得られないってこと。たとえば、不帰は今まで何回か滑っているんですが満足できたことは一度もないし、北アルプスにはまだ滑ったことのないデカいラインが無数にある。でも、それと同じくらい喜茂別町の実家をベースにした活動にも魅力を感じているわけで……。
──滑りの追求はどうなる?
まだまだ続けていきたいと思っていますよ。もしも北海道に戻ったとしても、今まで通り海外にも長期で滑りに行くし、出来る限りフリーライド大会にも出続けたいですね。落ち着いちゃったなとは思われたくないし、自分自身のスキーを突き詰めることはこれから先も一生続けていくつもりですから。
──これまでのフリーライド大会でのリザルトはどうだったの?
最高でFWQハクバで5位。最初に出たのはモンタナのビッグスカイなんですけど、日本では3シーズン、フリーライドハクバ(※23)とJFO(※24)に出ています。できればもっと出場したいし、出るからには勝ちたいのですが、でも誰かと滑りを比べたり、誰かに勝ちたいというよりは、今年はあのラインを滑りたい、あの斜面で結果を残したいといったモチベーションが大きいので、一概にコンペティションだけにフォーカスすることはなさそうですね。
──そうだね、やりたいことがたくさんあるわけだものね。
そうなんです。20代は自分の滑りを突き詰めていくことに専念してきましたが、30代はいただいたエネルギーを人に還元したいと思っていますので……。でも、20代の残り3年間をしっかりやり切らないと、30代はないなと思っているので、もっともっとプッシュしてきたいと思います。
──その延長線上にスキーガイドの道がある?
その通りです。常にそこは見据えています。白馬の山で、カラースポーツクラブで得た経験は貴重ですから、それをしっかり生かしていきたいです。自然のなかでゲストと過ごすことは、自分の思いを伝えることにも最適ですしね。
──最後にスポンサーを。
Sweet Protection、TONES SKI、ROXA SKI Boots、VERTS Japan、Colorsportclub。みなさん、お世話になってます!
※22 [フリーライドハクバ]
フリーライドワールドツアー(FWT)の日本ラウンド。予選でもあるFWQも同時開催され、国内の滑り手に門戸を開いている。ここでの表彰台に立った楠泰輔、佐々木悠は世界戦にインビテーションされて転戦を果たした
※23 [JFO=ジャパンフリーライドオープン]
FWTの翌月、2月の白馬で開かれるフリーライド大会。カナダBC州に住んでフリーライド大会に参戦してきた日本人ライダーが中心となってオーガナイズ。滑り手が作る滑り手のための大会にシンパシーを覚えるライダーも多い
【編集者+ライター】
寺倉 力 Chikara Terakura
三浦雄一郎が主宰するミウラ・ドルフィンズに10年間勤した後、BRAVOSKI編集部員としてモーグル、フリースキーに30年近く携わる。現在、編集長として「Fall Line」を手がけつつ、フリーランスとして各メディアで活動中。登山誌「PEAKS」で10年以上インタビュー連載を続けている。