インタビュアー/尾日向梨沙 Photo/菅沼 浩
スキークロス選手に始まり、フリースキーの映像や写真作品ではアグレッシブな滑りを見せ、グリーンシーズンはツリーキャンプやSUPという新しい遊びの提案、ヴェクターグライドのスキー開発まで手がける河野健児。
2020年6月からは地元・野沢温泉村の観光協会会長に就任した。古くからスキーの文化が色濃く残る野沢温泉村の歴史を継承しながら、世界で広げた見聞を生かし、今、健児は小さな村に新しい風を吹かせている。選手時代から現在に至るまで、河野健児のスキー人生と野沢温泉の未来を探る。
【Profile】
河野健児●こうのけんじ
1983年、長野県野沢温泉村出身。幼少期にスキーを始め、のちにスキークロスのワールドカップ選手として12年に渡り世界を転戦。現在は、地元・野沢温泉をベースに、手作りのツリーハウスを生かしたキャンプや自然体験を提供する“nozawa green field”や、SUPツアーの開催、ヴェクターグライドのマーケティングマネージャーとしてスキーの開発にも携わるなど、多岐に渡り活躍。野沢温泉観光協会会長。
アルペンスキーで上野雄大と競り合っていた少年時代
──スキーはいつから始めたの?
一番最初の記憶は、4歳か5歳くらいの時ですかね。うちの宿(※1)の常連のおばさんが連れていってくれたのが最初ですね。両親は冬忙しいから一緒に滑ることはなくて、兄貴(※2)がスキーを始めていたので仕方なく。
──仕方なく??
最初はスキー嫌いだったんですよ。いきなりスカイラインのグランプリコースかなんか連れて行かれて。苦手だったんです。爺さんが日影ゲレンデでスキーレンタルやっていて道具はたくさんあって、必然的に始めた感じですかね。
──途中からスキー好きになったんだね?
小学校2年の頃に野沢温泉スキークラブ(※3)に入りました。南志賀温泉(現・ヤマボクワイルドスノーパーク)でGSの大会があって、3位に入ったんです。その時くらいからですかね、楽しくなったのは。
──野沢温泉の子供たちはみんなスキークラブに入るの?
宿泊業の人たちは特に多いですね。親が楽なんだと思います。学校行って帰ってきたらすぐ練習に行って、夜20時前くらいに戻ってきてご飯食べて疲れてすぐ寝るから。平日は毎日カンダハーコースでナイター、土日になると大会に出かけていくっていう毎日でした。
──小学校2年から高校までレース漬けだったってことなんだね。レース人生の中で特に記憶に残るエピソードはありますか?
スキークラブでは、小学1~4年生と、5~6年生でクラスが分かれるんですね。僕は3年生の頃、調子が良くて4年になったら全部の大会優勝だな~なんて思ってたんですけど、4年の前半の大会でポールをまたいでしまってスネ2本折れて、シーズン棒に振ってしまったんです。
この頃、上野雄大くん(※4)と、僕が長野県の大会の1、2位を争っていて、小5のシーズン前半は雄大くんが大体1位、後半は僕が大体1位で、小6も全勝だと意気込んでいたんだけど、またポールを引っ掛けて膝の靭帯と骨を怪我してしまって。
中2の県大会では2位まで行って、全国大会に第1シードで出たんですが突然ひどい腰痛に襲われて、1本はなんとか滑ったけど2本目は立てなくて棄権。悔しい思いをしましたね。
──怪我との戦いだ。でも今はフリースキーの世界で全国的に活躍している河野健児と上野雄大が小学生時代からスキー王国長野の1位2位を争っていたってすごいね。やっぱり将来の夢はスキー選手だった?
そうですね、ずっとスキー選手でしたよ。中学3年の進路指導もなく、スキーで飯山南高校(※5)に進んだし、高校の時も必要ないと思って進路相談はしなかったですね。
──大学進学は考えなかった?
うちの親父がいつも言ってたんです。「勉強したかったら金出してやるけど、スキーで行くなら一銭も出さない」って。高校では成績出てなかったから、レーサーとして続けていくのは難しいとわかっていたけど、大学で勉強をしたいこともなかったし、早々と進路を決めてスキーの道を諦めるのも嫌だったから、とりあえず高3の3月、野辺山のFISレースまで出ました。結果は出なかったけど、スッキリこれで終わりにしようって感じでした。
──そのあとは何をしようと?
野沢温泉にいてもやることないし、東京の友達の誘いで、メッセンジャーのアルバイトを始めました。東京に行けば何かあるんじゃないかって。
──東京に出たら何か見つかった?
メッセンジャーのバイトはめっちゃ面白くて、東京の道も何もわからない若造が、スキーをやっていたおかげで、入って3ヶ月で売り上げのトップチームに入れました。身体も動かせていい仕事だったと思います。今もこの時の仕事仲間とは交流があって、毎年野沢に遊びに来てくれるんですよ。
※1[うちの宿]
野沢温泉村の中心部に位置する「やすらぎの宿 白樺」が河野健児の実家。
※2[兄貴]
健児の兄、河野克幸もスキーヤー。オーストリアへスキー留学、アルペンスキー、スキークロス選手として活躍、フリースキーの映像作品もプロデュース。
※3[野沢温泉スキークラブ]
1923年(大正12年)、まだ湯治客が訪れる程度の野沢温泉に、スキーによる村起こしを目的に創立。技術講習や大会誘致、選手育成だけでなく、昔はスキー場の運営までスキークラブが担っていた。オリンピック選手も多数輩出。
※4[上野雄大]
野沢温泉村生まれのスキーヤー。競技スキー選手として活動後、スキークロス、ハーフパイプ競技に転向。ハーフパイプ選手として自身の活躍のみならず、競技の普及、選手育成にも尽力。現在、野沢温泉でスキーショップ「COMPASS HOUSE」を営む。
※5[飯山南高校]
長野県内の公立高校では唯一スポーツ科があり、スキーの名門校として数々のスキー選手を輩出してきた。現在は周辺3校と合併し飯山高校に。
スキークロスとの出会い
第二のスキー人生の始まり
──スキークロスはいつ始めたの?
冬、実家の宿業が忙しいから手伝うために、メッセンジャーのバイトを休んで冬だけ野沢に戻ったんですね。その時、斑尾の北村明史(※6)からスキークロスの大会あるから出ない?って誘ってもらって。まだスキークロスの存在も知らなかったんだけど、上野正之(※7)とふたりで北海道まで行って、テイネで開催されたジャパンクロスゲームマスターズ(※8)に出ました。
その時、僕は準決勝敗退で、優勝は秋庭さん(※9)。準決勝で秋庭さんと競り合って、最初僕がトップだったんだけど、途中のバンクで弾き出されて秋庭さんが勝ちましたね。
──秋庭さんとはいきなりレース上での出会いだったんだね。そこでスキークロスにハマったと?
今まで人生で2回、根拠のない自信を強く感じた瞬間があるんですけど、この時が1回目です。この競技ならもしかしたら世界に行けるかも、と思ったんです。このシーズンは毎週末草大会に出て、20戦くらい回りました。その翌年に、スキークロスがワールドカップの種目になることが決まったんです。
──それでまたスキー選手の道に返り咲いたんだ。
メッセンジャーのバイトを始めた時、もうスキーはやらないからと宣言したのに、結局スキークロスでワールドカップ目指すからバイトやめます、と言ったら、お前結局またスキーやるのか、と呆れられながらも世界目指すなら応援するぞ!と背中を押してもらえて。この当時、サロモンがクロスマックスというスキーを出して、僕と上野正之、雄大がサロモンチームになりました。
──それでワールドカップに?
そうですね、この当時はSAJに言えば誰でもワールドカップに出られるような状態で。僕ら野沢温泉の仲間の他に、秋庭さんや瀧澤さん(※10)、白馬の深沢大輔、VIC小林さん、札幌の坂本豪大さんなど13、14人くらいいましたね。開幕戦はティーニュ(フランス)で、最初はタイムレースで32位までが予選通過だったんです。僕は80番スタートだったんですけど、途中から霧が上がってきて全然見えなくなって、結果36位。
この時はまだ若くて、不公平なレースに納得がいかなかったのと、資金もなくてラークス(スイス)での第2戦は出ませんでした。でも3月のレ・コンタミンヌ(フランス)での最終戦では7位に入れました。
──まだ20歳くらいだよね? 選手としては若いほう?
そうですね。スキークロスは経験が一番ものをいう競技だから、アルペン引退してスキークロスに転向する選手も多かったし、僕は常に一番若いほうでしたね。
──それからしばらくは選手生活だね。
7位に入ってからサロモンが遠征費などサポートしてくれるようになったんですけど、それだけでは暮らしていけなくて、夏は昼トレーニングして、夜は歌舞伎町の店にお酒の配達をするようなバイトもしてました(笑)。
なんでもやりましたよ。そのベースがあるから、もし仕事を失ってもなんでもできるって自信がつきましたね。
※6[北村明史]
斑尾高原出身のスキーヤー。スキークロスで4年間ワールドカップを転戦後、斑尾高原のツリーランコースをプロデュース、現在、斑尾高原でバックカントリーツアーサービスを展開。
※7[上野正之]
野沢温泉村生まれのスキーヤー。上野雄大の兄であり、アルペン、スキークロスとオールジャンルに精通。現在野沢温泉スキー場勤務。
※8[ジャパンクロスゲームマスターズ]
国内各地で開催されていたスキークロス、スノーボードクロスの草大会。マイルドセブンがメインスポンサーについたり、スーパーファイナルの賞金は70万円など当時としては華やかなシリーズ戦で、トップ選手が出場していた。
※9[秋庭将之]
プロスキーレーサー、デモンストレーター、スキークロスとさまざまなジャンルで活躍後、フリースキーに傾倒し、ドメスティックスキーブランド、ヴェクターグライドを創設。
※10[瀧澤宏臣]
アルペンスキー、モーグル、スキークロスと長年選手として活躍した。スキークロスではXゲームズで優勝、ワールドカップでクリスタルトロフィー獲得、バンクーバーオリンピック出場など日本のスキークロス界の第一人者。
世界を転戦しながらアラスカの大斜面にも挑む。セカンドキャリアも見据えて
──その後成績は?
2002~2003シーズンからワールドカップに出始めて、4シーズンくらいは年間ランキングが20~28番くらいを行ったり来たりでしたね。2007年に猪苗代で4位になって年間ランキングが14位に。表彰台には立てなかったけど、結果その時が一番いい成績でした。
──スキークロスをやりながらフリースキーの映像作品なんかにも出ていたよね。
はい、最初にティーニュに行った時、いろんなジャンルのスキーをやっている人たちと一緒だったから、バックカントリーを滑ったり、パイプもやったりと仲間にいろんなことを教えてもらったのは大きかったですね。
──アルペンレースに打ち込んでいた時とは違う?
そうですね。大会で1番を目指すというのは同じだけど、スキークロスは山を滑ったり、飛んだりといろいろやった方がクロスに活かせるというのもありました。勝って楽しむことと、山を滑って楽しむことの両方を知ることができた時期でしたね。アラスカで雪崩に巻き込まれたこともありました。
──選手生活を長く続けてきて、一番糧になったことってどんなこと?
2009年の怪我ですかね。ティーニュでの開幕戦で前十字靭帯を切ってしまったんです。バンクーバーオリンピックの前の年で、2月に手術をすることになりました。その時が「根拠のない自信」の2回目なんですけど。
当時みてくれた主治医とリハビリの先生が皆川賢太郎さん(※11)と同じ先生だったんですね。オリンピックまで1年しかない、そこに間に合わせるのはかなり厳しい、と。賢太郎さんは復活がめちゃくちゃ早かったけど、あの人くらいのスピードで直さないと厳しいよ、と言われたんです。
その言葉に火がついてしまって。絶対やってやる、と。手術の翌日からリハビリが始まって、1日7~8時間くらいずっとリハビリしてましたね。結果、夏のニュージーランド遠征が始まる頃には治って、先生も驚いていました。リハビリ中にいろんなスポーツ選手と話す機会もあって、さらに視野が広まったというのも大きいですね。
──でもオリンピックには一歩及ばずだったんだね。
日本人で1人しか枠がなくて結果、出れなくてまた4年続けることになるんですけど、次のソチオリンピックも出れずに。でも悔いは全然ないんです。今がめちゃくちゃ面白いから。もしオリンピックに出ていたら、自分の人生変わっていたかもしれないけど、出る出ないは結果であって、それまでの過程が充実していたし、本気で取り組んでいたから後悔はないですね。
──引退後のイメージは持っていた?
セカンドキャリアは22歳くらいからずっと考えていたんですよ。何をするかは決まらなかったけど、2014年に引退して、ちょうどその年に兄貴が七良兵衛(※12)を作ると言っていたから、とりあえず手伝うかみたいな感じで。
2シーズン、宿のフロントやったり朝食作ったりしてたんですけど、これ、自分がやる意味あるのかな、と疑問に思うこともあって。ストレスが溜まって普段引かない風邪を何度も引いたりして。それでいろいろ考えて、グリーンシーズンの野沢温泉に着目したんですよね。
──コーチとかは考えなかった?
頼まれてソチオリンピックのアシスタントとかはやったんですけど、自分が選手時代かなりストイックにやっていたので、他の選手にその本気度が伝わるかな、みたいなのもあったり、自分よりもコーチに向いている仲間もいたから。スキー以外の興味も多岐に広がっていて、それがめちゃくちゃ面白くなってましたからね。
※後編に続く
※11[皆川賢太郎]
アルペンスキー選手として、長野、ソルトレイク、トリノ、バンクーバーと4大会連続オリンピック出場。トリノオリンピックではSLで4位と50年ぶりの日本人選手入賞を果たす。
※12[七良兵衛珈琲]
兄、河野克幸が営むカフェと宿泊施設。2015年に「白樺」に隣接する建物を自らリノベーション。現在は野沢温泉ならではの旬の素材でコース料理も楽しめるカフェバーとして人気。
インタビュアー/編集者+ライター
尾日向梨沙 Lisa Obinata
1980 年、東京都生まれ。早稲田大学第二文学部卒業後、13 年間、出版社にてスキー専門誌『Ski』『POWDER SKI』などの編集を担当。2013 年より同雑誌の編集⾧を務める。2015 年に独立し写真家 渡辺洋一氏とともにスノーカルチャー誌『Stuben Magazine』を創刊。2020 年に湘南から⾧野県飯山市に移住し、雪山と自然に寄り添ったナチュラルなライフスタイルを実践中。