「プロスキーヤー」として今年20年目を迎えた児玉毅の最新インタビューをお届けしよう。26歳でアルバイトを辞めて以来、これまでスキー1本で生活してきたという。世界の雪山にシュプールを刻み、そのライディングとエンターテイメント性あふれる表現で多くの滑り手を魅力してきた彼のモチベーションの源に迫ってみた。インタビューワーは「Fall Line」編集長の寺倉力。児玉とは20年来の付き合いである。
前編はコチラから
児玉はなぜ、「地球を滑る旅」を始めたのか?
このところ、児玉毅は国内でプロスキーヤーとして活動しつつ、フォトグラファーの佐藤圭と組んで「Ride The Earth─地球を滑る旅」と題した海外スキートリップを敢行してきた。
2012年のレバノンを皮切りに、8シーズンで7回(2013年は2度目のなま癖グリーンランド遠征で休み)。モロッコ、アイスランド、カシミール、ロシア、ギリシャ、そして昨年は中国と、スキートリップのイメージが限りなく薄い国や地域を選んできた。
前編で述べたように、今年はコロナの影響で延期になったが、現在児玉毅のプロスキーヤー活動の主軸は、まさしくこのシリーズにある。

──そもそもの話。「地球を滑る旅」を始めた理由をもう一度説明してくれますか。
プロスキーヤーの活動には旅が伴うわけですが、いままで撮影トリップというと、なま癖の遠征も含めて、わりと大人数で動くことが多かったんですね。それはそれで楽しかったんですが、振り返ってみて自分が最も充実していた時間はというと、たとえばコロラドに単身スキー武者修行に行ったときだったり、怪我のリハビリを兼ねてひとりで旅した南米の2カ月間だった、ってことに気がついたんです。
──なるほどね。
ただ、ひとり旅、つまりフォトグラファーが同行していなかったので、作品としては何も残っていないんですね。それで、もう一度あんな旅ができないかな、誰か一緒に行けるフォトグラファーはいないかな、とずっと思っていたんです。
一緒に貧乏旅行しながら、同じような目線でああでもない、こうでもないと旅を共有できる同世代の仲間。そんなときにフォトグラファーの佐藤圭君とアラスカトリップに出かけたのが、ひとつのきっかけでした。「Fall Line」で掲載していただいたトリップです。
──「Fall Line 2011」。楠泰輔、佐々木悠に、スノーボーダーのデカチョウ、中川伸也とのアラスカトリップだね。
そうです。それまで僕にとってのアラスカは、撮りたい絵を撮影しに行く場所であって、「聖地」と呼ばれるエリアで究極のライディングを求めたヘリスキー撮影でした。

ところがこのときのアラスカは、できるだけお金を使わないで節約しながら、身近なバックカントリーをちょこちょこ登って滑って遊ぶというスタイル。僕にとってはこの新しいスタイルがすごく新鮮で楽しかったんですよ。
で、そんなトリップを過ごしてみて、圭君とだったら楽しく旅ができそうだなと感じたんです。それで僕の漠然とした計画を話したら本人もけっこうノリ気で、「それだったら」と、いくつかの雑誌社に話をした結果、今は無きスキージャーナルの「ラストフロンティア」誌で取り上げてくれることになった。それがはじまりです。
──行き先はどういう基準で決めたの?
みんなが「えっ?」って聞き返すような場所がいいと考えたんです。三浦先生を始め、みなさん世界各地へスキートリップしているイメージがあったので、僕らとしてはちょっと変わっている土地に旅したほうが、世界の広さを感じるんじゃないかと思ったんです。で、そうしていろいろ調べた結果、レバノンがいいかなと。インパクトあるし。
──正直なところ、ページを開くまであまり期待はしていなかった。中東の砂漠を歩き回った挙げ句、途切れ途切れになった茶色い残雪でワンターンしてハイタッチ。「雪があったぞ!」って。たいへん失礼ながら、そんな物語を想像していた。
実際のところ、僕らもレバノンがどのような場所なのかほとんどわからない状態で行ったんです。でも、行ってみたらビックリ。
──あれほどまでに素晴らしい雪山とスキーの文化、それに濃密なストーリーにあふれていたとはね。
いま思えば短いパツパツの日程の中で、奇跡的な巡り合わせの連続でした。最初だったから不安も大きかった。でも、不安が大きいほど、あとの印象は濃くなるじゃないですか。
──一番印象に残っているのはどんなシーン?
表紙の写真にもなったスキー場での1日です。スキー場は素晴らしい地形と豊富な積雪に恵まれていて、奥には300万人都市のベイルートの街が見えていて、その先に地中海が光っていた。

あのシーンはいまでも忘れられません。いままで何十年もスキーをしてきたし、世界各地で滑ってきたけど、スキーでこんなに思いがけない光景に出会うことがあるんだと驚かされました。世界は広く、僕らはまだ何も知らないんだな。だからもっと知りたいし、もっと滑りたい。そんな強い衝動を覚えたんです。
──地球の果てのようなグリーンランドから、地球のてっぺんのエベレスト山頂にまで立っているのに、中東のスキー場で世界に目覚めるというのも興味深いね。
なぜか逆に、地球の広さを感じたんです。グリーンランドやヒマラヤに行けば、それはすごい景色と出会えるのは当たり前。けれども、生活圏に位置するどこにでもあるようなスキー場周辺で、こんな天国みたいな場所と出会えるとは思っていなかったんですね。
──予想もしない出会い、思いがけない驚き。
そうです。こんなところに! という感動ですね。ひたすら前人未踏の山々を分け入って行く冒険は非日常の世界だし、もちろん新しい発見も多いわけです。でも、ごく普通に生活している人がいる土地で、驚くような新鮮な出会いがある。だから僕らの「地球を滑る旅」は冒険ではないんです。「旅」なんですよね。
最初はこの旅をシリーズ化できるとは思っていなかったんですよ。でも、このときの体験が、毎年この旅を続けたいという原動力になりました。
「地球を滑る旅」は下調べなしって本当?

──実際のところ、どのくらいリサーチしてから出かけるの?
極力調べないで出かけています。それが僕らのちょっとした決まり事になっています。いまの時代、調べれば調べるほど、どんどん掘り起こせるじゃないですか。でも、それをやってしまうとおもしろくない。僕らはビックリしに行きたいので(笑)。
──それで困ったことにはならないの?
たとえば、ギリシャやアイスランドは観光の国ですから、これはもうホントになにも調べないで出国しても、ぜんぜんなんとかなってしまいます。逆にレバノンやカシミールはひと癖もふた癖もあって、それこそ治安的にもめちゃくちゃ悪い。それでも、僕らはわりと楽しく旅をしてきたという自負があります。
──さすがだね。
ところが、中国だけはダメでした。なにひとつ通用しなかった。中国に関しては安心していたというか、ある意味、少し舐めてたんですよね。お隣の国だし、とりあえず漢字の国だし、中国人の友達も大勢いるし、まあ、なんとかなるでしょと。
──わかるような気がする。
最初に判明したのが日本で使っていたクレジットカードがまるで使えなかったこと。ビザもマスターズもアメックスもまったく通用しない。で、向こうの人たちはほとんど電子マネーで、現金すら敬遠される。
それでもなんとか現金をやり繰りしながらやっていたんですが、中国は広いので飛行機で移動が多いわけです。で、そのたびに荷物の多い僕らはオーバーチャージがかかる。でもクレジットカードが切れないので、どんどん現金がなくなっていって、最終的に尽きてしまったというわけです。
──ははぁ。それでどうしたの?
ここで身動きが取れなくなったら最悪だから、そうなる前にいったん日本に帰ろうと、逃げ出すように帰ってきました。
──敗退だね。
敗退です。もっとも、最初から時期を違えて2回行く予定でした。中国は広すぎて、地域によってメインの時期が違っていたので。でも、結果的に最初の旅ではやりたいことの半分もやらせてもらえなかったな。


──アクシデントもまた旅の醍醐味なのでは?
それはそうなんですが、その域を超えていました。たとえば、レバノンとかカシミールは、ある意味、ツブシが効くんです。困ったときにちょっと握らせば、融通を効かせてくれたりするし……。
でも、中国はそうはいかない。法律や条令もめっちゃ厳しいし、警察も非常に強力で危険な存在。一回捕まったら帰ってこれないんじゃないかってくらい。そういう意味で、リカバリーが効かない国は初めてでした。
──なるほどね。
リカバリーこそが醍醐味だったんですよ。なにかトラブルが起こっても、よ~っし、またネタがひとつ増えたぞ、くらいにしか思っていなかったんですが、リカバリーできないからネタにもならない。ほんとに困った状況でした。
「地球を滑る旅」の予算はどうしてる?
──旅の内容もさることながら、毎回それをフォトブックとして出版している点にも感心してます。
最初のレバノンは雑誌の企画として旅立ったわけだったんですが、行ってみたら予想外に良くて、写真も誌面に載せきれないくらい撮れすぎちゃったんです。どうするこれ? 雑誌だけじゃもったいなくない? ってことで、いろいろ相談して本としても出そうということにしたんです。初年度はスキージャーナルが発売元になってくれて、2年目からはエイチエスという札幌の出版社です。
──スキー誌を出している出版社でも、なかなか出せない本だと思う。
そうですね。何人かの出版関係の方から言われましたよ。ホントに作りたい本を作っているよねって。
──その言葉は賞賛半分、うらやましさ半分かな。気持ちはよくわかる。実際のところ、レバノンやモロッコでスキーをする本ですと会議で提案しても、理解を得られる気がしない。「いったい誰が買うんだ?」って話になるだろうし。
それはそうですよね(笑)。そう考えれば、いまやってくれているエイチエスという会社の担当者の男気のなせるわざですね。ほんとに僕らの心意気に賛同してやってくれているわけですから。

──どんな出版社なの?
なま癖のグリーンランド遠征の本『GREENLAND─海と山 10年の軌跡』(著:なまら癖-Xグリーンランド遠征隊)を出してくれた出版社です。あの本、1ヶ月くらいの期間に死に物狂いで作ったんですが、そんな僕の姿を知って一緒にやりたいと思ってくれたようです。編集者とはそれ以来の付き合いで、言わば、よき理解者応援者ですね。
──採算はどうやって取れているの?
出版社としては長期的にペイさせる計画のようです。毎回、最初はそれなりの勢いで売れてくれるんですが、その先は何年かかけてじわじわと売っていく感じです。僕らもスポンサーの協力費などを集めて、極力、出版社がお金を掛けないで出せる段階まで準備しています。
──タケや圭君の収入にはなるの?
いちおう、僕の執筆料、圭君の写真原稿料、デカチョウのデザイン料も含めて、原稿料という形で予算立てしています。
──ノーギャラでないことは大事だよね。次に続くためにもね。
自費出版では継続できないですよね。やはりそこはノーギャラではなく、仕事として製作しているという意識と実態が大事だと思う。お金をいただくからには、それに対して応えたいし、いいものを作りたいという気持ちも大きくなる。そうすればプロスキーヤーの活動だと胸を張れますからね。
──本の売り上げで旅の取材費はどのくらいまかなわれる?
本のほかに、Tシャツなど物販の売り上げも含めて、収益が上がれば来年に繰り越せるお金がでてきます。少しずつ増やしていき、いまはようやく旅先までの往復エアチケット代くらいは出せるようになったという段階です。
──やはり全体的には持ち出しが多そうだね。
細かく計算したら赤字だと思うので、あまり細かく計算しないようにしています。僕としては自分の活動の主軸のようなものです。自分自身の名刺であり、人に知ってもらうプレゼン資料であり、プロスキーヤーとしての表現活動でもある。そうしたいろいろな役割がこの本にはあるので、計算上はマイナスだったとしても、ぜんぜんプラスだなと思っています。
──そう考えると、「地球を滑る旅」は本を出すことで完結する、というか、本を出さないと終わらないんだね。
まさにそうです。流れとしては、まずはフライヤーを作って夏前のスキー用品早期受注会で宣伝するんですよ。こんな本を作りますって。アテンドしたお客さんに新製品を説明するときに話のネタにもなります。会話が膨らむじゃないですか。
──確かにね。
で、秋になったら僕らの出版記念キャラバンでショップイベントに来ていただきます。その時期はショップでも商品が売れる時期ですしね。こうしてシーズン前に多くのお客さんと繋がることができる。彼らはシーズンインして雪上でも繋がる可能性が高い濃い目の人たちでもあります。いろんな意味で、僕の活動を活性化してくれるんです。
──意外と完成されたシステムだね。
やはり表現することが好きなんです。でも余計な説明はなにもいらない。「世界中の雪を追いかけているプロスキーヤーです」と。これでいいわけです。すごくシンプルですよね。スキーが大好きです。大好きだから続けているんですよと。そういう自分がちょっと心地良かったりしています。
プロスキーヤーとしての収支に迫る
──さて、現在契約を結んでいるスポンサーは何社ある?
金銭契約を結んでいるのはピークパフォーマンス、アトミック、スミス、マツモトワックス。この4社です。ほかに物品提供としてはヘストラ、カンプ、ドイター、プリムス、ニーモなどがあります。
──現在、タケの年収のなかでスポンサーフィーが占める割合はどのくらい?
だいたい半分くらいでしょうか。

──残りの半分は?
次に多いのがレッスンやツアーといったシーズン中の収入です。週末はピークパフォーマンスや石井スポーツ、そのほかのショップのイベントツアーが多いです。バックカントリーツアーでは知り合いの有資格ガイドに依頼しています。それ以外に、平日には僕に直接くるお客さんとテイネやキロロで一緒に滑るプライベートレッスンツアーのようなセッションがあります。
──プライベートツアーは常連さん?
そうです。僕の場合は基本的にウェブサイトなどで公募はしていないので、以前にツアーやイベントに参加したおなじみさんで、一見さんはいない感じです。
──講演会もあったりする?
ありますよ。でも、雑誌の原稿料やアテンド、トークショーの謝礼などと合わせた、残りの1割くらいでしょうか。スポンサーフィーと雪上で9割ですね。
──スキー関連の収入だけで生活できるようになったのはいつから?
たしか、アルバイトを辞めたのが26歳くらいだったかな。それから約20年ですか。それまではゴルフ場とか土木、河原の草刈りなど、夏に働いて、冬はスキー。失業保険などをうまく活用して暮らしていましたね。
──20年もスキー1本で生活してきたというのはすごいね。
僕の場合はかなり恵まれていたと思います。スタートがバックカントリーブームや「icon」シリーズと重なっていたし、そのうちに契約金が出るようになっていき、自分の活動に集中できるようになりました。
──日本でこのジャンルでは数少ないひとりだね。
いまのフリーライドスキーヤーはたいへんだと思いますよ。あの頃はメーカーにも体力があったのでしょうね。僕みたいなマイナージャンルでも、遠征費も含めてアルバイトしないでやっていけた。あとは雑誌の海外取材もけっこう多かったので、海外取材に呼んでもらって、そのついでにほかで撮影、というのもできましたよね。
20代後半から30代にかけての頃が一番契約金をもらっていたかもしれない。いまはだんだんしぼんでいく一方で、求められてることは増えているかな。まあ、立場的にこのジャンルのことをよくわかっている人間の役割だとは自覚していますが。
──奥様は働いているの?
看護師なんですが、今は休職中で、再開しそうな雰囲気はあります。
──コロナでホントにたいへんな時期だろうけど、プロの滑り手やサーファー、クライマーにとっては、ある意味、理想の結婚相手と言われているね。高収入で手に職があり、山や海の近くに住むこともできて、おまけに心身共に頼もしい(笑)。
そうなんですよね。なんだか母性本能を感じますよ。いま、コロナで僕の仕事も激減したわけですよ。展示会もなくなりました。本も今年は作れません。暇というか時間だけはたっぷりある。「それなら何かバイトでも探して働いてよ」とはひと言たりとも言われたことはありません。逆に「それじゃ私、少し働こうかな」って言い出しているほどです。
──素晴らしいね。
「あなたは好きなことをする係だからね」と言われています。まあ、僕みたいなのと一緒になりたいと思った時点で覚悟したんでしょうね。ホントに恵まれていると思いますし、妻には感謝しています。
プロスキーヤー児玉毅、これからの20年

──「地球を滑る旅」ではなく、かつてのような冒険的な遠征に行く予定は?
遠征ですか。そうですね、楽しい経験だったし、非常に有意義な時間でしたね。ただ、ああいう遠征は、目的地ありき、なんですよ。やはり、あそこに行きたい、滑りたい、という強い気持ちがあって初めて成立するわけです。その山が非常に困難で、自分ひとりでは厳しい。そうなると仲間を集めて遠征しようという話になっていくと思うんです。
──確かにそうだね。
今やっている旅は、あえて目的地を決め込まないでザックリしているからこそ旅なんですけど、いまはそういう形で活動を続けている。それが冒険と旅の違いでもありますね。
──では「地球を滑る旅」はいつまで続く?
まだまだ続きますよ。常にリストアップをしていますしね。僕のパソコンには「地球を滑る旅」というフォルダがあって、そこには行きたい国のファイルがずらりと並んでいて、なにか情報を見つけたら、そこにポンポン放り込んでいる状態です。
行きたい国は無数にあるんですが、この旅のいいところは、どこに行こうかなって考えることが、楽しみの半分くらいを占めているんですよね。そのワクワク感がすごく楽しい。
──スキーのイメージがない国や地域という路線でいくと、何年かしたら行き詰まりそうだけど?
そのときはそのときです。このテイストでざっくり一周したら、次からはまた違ったテーマに切り替えればいい。もしかしらた冒険スタイルになるかもしれないし、考えようによってはいくらでもテーマは沸いてきますから。
──極端なことをいえば「地球を滑る旅─スイス」とかね。そのままじゃんって(笑)。
ホントは、どこかの段階で王道を入れたい気持ちもあるんですよ。僕が知らないスイスや、みんなが知らないスイスもあるでしょうしね。でも、ページをめくってみたら、あれ? って感じで驚かせる旅にはしたいですけどね。
──そう考えれば、確かにテーマはいくらでも浮かんでくるね。
そうなんです。いくらでもあるんです。思いついて、行動に移して、旅して発見する。それが旅とスキーの価値だと思うんです。そこを僕らの活動で楽しく表現していければなと。まあ、この旅に関しては、少しがんばれば自分でも行けちゃう、と思えるレベルがいい。俺でも行けそう、でも、普通は行かないよな、ってあたりですね。
──いまは46歳?
この7月で46歳です。
──いつまでこの旅を続けると思う?
わかりません(笑)。ただ、一番大事なことは、好奇心というか、みずみずしい気持ちを保ちながら続けていくこと。ああ、今年もまたやらなきゃいけないって感じになるのは違うと思う。まあ、僕らの気の赴くままに続けられたら幸せですね。

編集者+ライター
寺倉 力 Chikara Terakura
三浦雄一郎が主宰するミウラ・ドルフィンズに10年間勤した後、BRAVOSKI編集部員としてモーグル、フリースキーに30年近く携わる。現在、編集長として「Fall Line」を手がけつつ、フリーランスとして各メディアで活動中。登山誌「PEAKS」で10年以上インタビュー連載を続けている。
フォトグラファー
亀田則道 Norimichi Kameda
スキー写真家として35年以上のキャリアを誇り、三浦雄一郎&スノードルフィンチームを皮切りに、国内外のフリーライドシーン撮影では草分け的存在。海外ではスコット・シュミットとグレン・プレイク、国内では児玉毅、佐々木大輔、浅川誠、石橋仁などを最初にフォーカスした日本人写真家でもある。
フォトグラファー
菅沼 浩 Hiroshi Suganuma
20代でスキー写真家としてキャリアをスタート。現在は鎌倉のビーチサイドの拠点を置きつつ、スノー&オーシャンスポーツを中心に撮影を続けている。長年にわたって世界のビーチと雪山への旅を繰り返し、多くの滑り手やオーシャンアスリートに支持されている。写真集に『SHAPE OF SNOW』がある。
フォトグラファー
佐藤 圭 Key Sato
スノーボードフォトグラファーとして専門誌を中心にキャリアをスタート。現在はスノーボーダーからスキーヤーまで境目なく、多くのライダーたちに支持されている。児玉毅との「地球を滑る旅」では撮影を担当するほか、プランニングからイベントまでを一緒に手がける良きパートナーでもある