フリーライドの時代を拓いた男「佐々木大輔」|インタビュー後編

2002年 Skookum Glacier Photo : Yoshiro Higai

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佐々木大輔はなぜ、そしていかにして
国際山岳ガイドを目指したのか

2013年 Greenland west coast

──31歳で国際山岳ガイド資格に挑戦を始めて、6年間かかって資格を取得している。

まあ、日本にはない氷河のガイディングを学んだり検定を受けたりしますし、現地でのクライミングやアシスタントガイド経験も必要なので、何度もヨーロッパに行かなければならない。それなりに時間はかかりますよね。でも、日本人としてはそんなに時間がかかっているほうでもないです。

──国際山岳ガイドになるために何回ヨーロッパを往復したの?

検定や試験のためだけでいえば4回ですけど、ケガした年も含めると5回行ってますね。

──ケガというのは?

2回あって、ひとつは試験が終わった日です。「試験が終わったから、みんなで滑りに行こう、イェィ!」みたいな感じでガイド仲間と滑りに行ったら、氷河でクレバスに落ちて、顔面を骨折して大腿骨の付け根にヒビが入ってレスキューされました。「イェィ」って言い過ぎた感じですね。

もうひとつは、試験が始まる直前に、なんでもないところで転んで腕を骨折。それで1シーズン空振りしました。で、そのあとに夏も冬も現地でアシスタントガイドをしなじゃいけないので、それを含めるとヨーロッパには7年間通いました。

──クレバス転落はけっこう危なかったと聞いています。

いやぁもう、完全に危なかったです。高さでいえば、電柱より高いところから落ちてますからね。底は見えず、そこからまだ下のほうにクレバスが延びていました。スキーを履いたまま落ちたんだけど、気がついたときにはストックも板も何もナシです。たぶん、10分から20分くらい気を失っていたんだと思います。起き上がったら血まみれで、上のほうに穴が開いているのが見えた。幅は2、3mくらいかな。両側ともツルンツルンの氷で、テカテカ光ってちょっときれいだなって一瞬思いました。

──自力脱出は試みたの?

最初は自力で脱出するしかないと。一緒に滑りに行った二人の仲間も落ちているだろうなと思っていたからです。でも大腿骨の付け根を痛めていて、脚を引きずってしか動けない。しばらく落ち着いてから動き出してみたんだけど、やはり痛くて、登れなくて、うわぁどうしよう! というときに、レスキュー隊員が降りてきてくれたんです。落ちたのは僕だけで、それを見ていた仲間がスキー場に連絡してくれたんです。

──ちなみにアックスやクランポンは持っていたの?

いいえ。それどころかハーネスもヘルメットもなにもナシです。まあ、ナイフが1本あったので、最終的にはそれで氷にステップを刻んで登るしかないと。でも、それより早くレスキュー隊が来てくれたので助かりました。そんなことをしていたら、もっと底に落ちていたでしょうね。

──もうひとつの腕の骨折は?

その年は一緒に受験する日本人ガイドと試験の2週間くらい前にヨーロッパアルプスに入って、ふたりでトレーニングしていたんです。そのクライミング中にパートナーが落ちて足首を骨折してヘリでレスキューされました。10数ピッチのマルチピッチのルートでした。で、その後は病院にお見舞いに行ったり、彼が帰国するための荷物をまとめるのを手伝ったりして、空港から「サヨナラ、お大事に!」って送り出したんです。

その翌朝の6時半頃、試験会場に行こうと急いで荷物を持って宿を出たら、濡れた芝生の斜面でツルンって滑って、手をついたらポキッと折れたんです。階段で降りればいいのにショートカットしたのがいけなかった。それでも試験会場に行ったのですが、やはり痛くて登れず、そこから僕だけ離脱です。それで1年を棒に振ってしまった。

Denali カシンリッジ ジャパニーズクーロワールPhoto : Takao Araiba

──さて、スキーはともかくとして、クライミングスキルはどうやって鍛えたの?

別になにも特別なことはしてこなかったと思います。今はガイドとしてはアプローチシューズで5.10bくらい、クライミングシューズなら5.11後半くらい(※11)を登れればいい。ガイディングではそこまでハイグレードを求められるわけではありません。重要なところはそこではないので。それに、その当時は時間もあったので、よく瑞牆山(※12)にもクライミングしに行っていたし、若い頃の貯金もあったので、比較的ボチボチ登れていました。

──若い頃の貯金というと?

19、20歳のときに北米にクライミングトリップに行っていたんです。パートナーは中学の同級生で信大の山岳部に入っていた麦谷水郷。そいつと2年連続で秋に2ヵ月くらいトリップしてたんです。フリーとビッグウォールをちょうど1ヶ月ずつ。その段階で5.12まで登れるようになっていました。そのときの貯金ですね。

──ビッグウォールはどこを登ったの?

エルキャプのノーズとシールド(※13)を1本ずつ。楽しかったですね、垂直の世界。ビッグウォールのトレーニングで穂高の屏風岩東壁や丸山東壁にも行きました。

──それはドルフィンズでスキー修業をしていた頃だよね?

まあ、そうですね。やはりクライミングの世界には憧れていたし、スキーと山を両方やれていたというのは、日本人でほかにあまり例がなかったから、それが単純に国際山岳ガイドのチャレンジに生かされたということですね。

Photo : Yusuke Kunimi

──ガイドになろうと思ったとき、最初から国際山岳ガイドを目指していたの?

いや、最初は宮下さんに憧れていただけです。ただ僕がノマドに入った頃には、もう宮下さんは国際山岳ガイドだったような気がします。「国際」になるには、山登りもできて、スキーもできなきゃいけない。だから、自分はけっこう近いかなって思っていました。その頃、日本人ガイドで両方が得意な人ってそれほどいなかったと思うので。

──たしかにね。

あと一番の理由は、自分が楽しんできた世界を案内できるということ。結局、そこじゃないですか。やはり、軸足を世界中に置いていたから必然的ですね。自分が楽しんできた世界の雪山で、みんなに楽しんでもらいたい。そこがガイドとして一番大事なベースなので、それには国際資格は絶対に必要だと思いました。

Norway Lofoten諸島にて

※11 [アプローチシューズで5.10bくらい、クライミングシューズなら5.11後半くらい]

ルートクライミングのグレードを「5.@@」と表現し、「a〜d」や「+/−」の補足もつく。ビギナーがその日に登れるのが5.6〜5.8くらいで、少し慣れてくると5.9。クライミングジムに通って5.10が登れるようになり、5.11はトレーニングの継続とそれなりの努力が必要。ボルダリングには別のグレードがある

※12 [瑞牆山(みずがきさん)]

山梨県北部、長野県との県境近くにあり、小川山と並ぶ国内有数の花崗岩のフリークライミングエリア。ビギナーからエキスパートまで楽しめる小川山と比べ、ハイグレードのピッチが続く難度の高いマルチピッチルートが充実しており、本気度の高いクライマーに愛され続けている

※13 [エルキャプのノーズとシールド]

カリフォルニア州ヨセミテ国立公園に聳えるエル・キャピタンは標高差900mに及ぶ世界最大の花崗岩の一枚岩。「ノーズ(The Nose)」は30ピッチ以上ある初登ルートで通常3〜4日掛かって完登する。「シールド」はノーズに比べれば登る人も少なく、より難度の高いビッグウォールクライミングになる

国際山岳ガイドになった佐々木大輔
「2015 Fall Line vol.2」より再録

今年の7月、佐々木大輔は晴れて国際山岳ガイド協会(IFMGA)認定の国際山岳ガイドになった。山岳ガイドとしては、20代の頃に国内の資格を取得していたが、海外の主要な山域をガイドするには、この世界共通の山岳ガイド資格が必要となる。20代でスキーヤーとしての活動に区切りをつけ、30代は山岳ガイドとして質の高い活動を続けていきたい。そう考えた佐々木にとって、この国際山岳ガイド資格取得はひとつの重要な通過点といえた。

佐々木がこだわったのは、海外の山でガイドができるという職種的な面だけではなかった。これまで「なまら癖ーX」の面々と千島列島やグリーンランド、パタゴニアなど世界各地に遠征を繰り返し、高所登山でも弱冠17歳で登頂したネパールヒマラヤ・アイランドピーク(6,189m)を皮切りに、マナスル(8,163m)の7,400m地点からのスキー滑降や、アラスカ・マッキンリー(6,190m)山頂からの滑降、中国ムスターグアタ(7,546m)6,900mからの滑降など、それなりに多くの経験を重ねてきた。

だが、海外の山で出会った国際山岳ガイドからしてみたら、そんな佐々木でも単に日本から来た登山者のひとりに過ぎなかった。世界の山々を舞台に活動を続けようという佐々木としては、やはり彼らと肩を並べて対等にコミュニケーションしたかった。それには同じ立ち位置に上がるしかない。そんな思いも切実だったという。

Photo : Ayako Niki

佐々木が具体的に国際山岳ガイドを目指し始めたのは2008年のこと。ちょうど、スキーヤーとしての集大成となる主演ドキュメンタリーフィルム『END OF THE LINE』の撮影が2シーズン目に入った年だった。シーズンの撮影を終えて春にフランスに渡った佐々木は、シャモニで氷河研修を受講した。

日本の山岳ガイド資格になくて国際山岳ガイド資格取得に必要なもの。それが氷河上でのスキルである。氷河からアプローチすることが多い世界の山をガイドする際に必須の技術。だが、それをマスターするには、氷河のあるヨーロッパアルプスで研鑽を重ねるしか方法がない。こうして以後4シーズンに渡ってアルプスでの氷河研修を繰り返すことになる。

日本の山岳ガイドにとって、この氷河研修が大きなネックだった。研修自体は2週間だったが、最低でもその2週間前には現地入りして、山の環境に体を慣れさせる必要がある。したがって、滞在期間は通常1ヵ月に及ぶ。日本では練習できない技術であること以上に、たび重なる渡航費と滞在費は相当の負担といえた。

日本から国際山岳ガイドを目指すには2つのステップを踏む必要がある。まずは定められた氷河研修を終え、国際山岳ガイド連盟が定める本番クライミング実績の厳しいノルマを果たす必要がある。そのクライミング実績とは、国内の冬季岩壁登攀を10本以上、海外の岩壁登攀を6本以上、8時間以上のスキーツアーを20本以上という厳しいものだ。

これを終えると、国際アスピランガイドに認定される。正ガイドになる前のインターンのようなものである。ここから、海外で20日以上のアスピランガイド実務経験と20日以上の氷河研修を積む。

これらを満たして、初めて正ガイドの受験資格が得られるという、極めて長い道のりだ。

この間、佐々木は国内外でクライミングを続けると同時に、2009年には南極観測隊のフィールドアシスタントとして南極へも赴いた。また、氷河研修終了後にクレバスに転落して九死に一生を得たり、検定直前に街中で手を骨折してそのシーズンを棒に振ったりもした。そうやって6年を費やし、晴れて国際山岳ガイド資格を取得したのだった。

ちなみに現在のシステム、つまり、海外の国際山岳ガイド連盟と同等の実務経験が問われるようになったのは最近のことで、佐々木はその最初の取得者のうちの1人でもある。

実際のところ、そこまでの時間と出費を費やして得た「国際資格」によって広がる仕事で、これまでの投資分を回収できるかは微妙なところだ。だが、佐々木にとって、それは些細な問題だった。植村直己に影響されて10代で山を目指して以来、これまで世界の山々に遠征してきた。広い世界を知りたいという好奇心や、大きな自然で楽しむことの高揚感と素晴らしさ。それをガイディングを通して人に伝えていくことが、これからの自分の仕事。それが佐々木にとってのモチベーションだからだ。

Norway Lofoten諸島にて

究極の自給自足を求めて
狩猟にも手を出した

──最近は猟銃の免許を取って狩猟にハマってるらしいね?

以前からC.W.ニコルさんや星野道夫さんの本を読んだりして興味はあったんです。もっと小さい頃にはアイヌの文化に憧れて弓矢を作ったりしていたんですよ。それを具体的に思い出したのは、服部文祥さん(※14)の著書を読むようになってからです。ああなんだか誘われてるよなぁって感じてました。

──狩猟免許を取ったのはいつ?

去年です。2、3年前から考えていたんですけど、忙しくてスケジュールが立てられなかった。それがコロナになって、これだ!って。毎年年に2、3回試験があるんですけど、去年は1回になっていて、それでもタイミングよく、トントンといけて合格しました。

──それで実際に狩猟をしたの?

僕の家の裏にエゾシカが出るんですよ。足跡に最近気がついて、これはウチの近くで獲れるぞって。北海道では10月1日から猟が解禁になるんですけど、支度が調ったのが11月くらいで、そこから毎日通って足跡を見て、さらに木の枝や笹を不自然にならないように刈って……。そうやって毎日毎日見に行っていたら、いたんです。

最初は子鹿ちゃんが出てきました。これは撃てないと。2回目は親子で、今度こそ撃つぞって思ったら、はぁはぁドキドキと呼吸が荒すぎて撃てない。3回目は立派な雄シカがいて、撃ったら逃げたんです。それから2週間くらいは来なかったんですけど、毎日見に行っていたので、その狙ったところに出てきて撃てたという……。

──ははぁ。

まあ、解体するのが相当たいへんでしたよ。100kgくらいのエゾシカで、停めておいた軽トラックまで100mくらいがんばって引きずって、荷台に乗せて家に持ち帰って、車庫に吊り下げて解体しました。子どもたちも見に来ましたが、意外にも嫌がらなかったのでよかったです。

──あぁ、ついにそっち側に行ってしまったか、って感想かな。

子どもの頃から夢見ていた、究極の自給自足の形です。

──一頭を解体すると、どのくらいの量になるの?

肉の量はすごいので、いろんな人にあげて、3頭分入る冷蔵庫を急いで買いました。

──自分の獲った鹿肉はおいしかった?

めちゃおいしかったです。けっこう上手に血抜きができたようで、鹿を食べ慣れた人からも「おいしい」って言ってもらえました。うまくいったんだと思います。

──夏は家庭菜園で野菜も作ってるでしょ?

そうですね。それは奥様の役割です。まだそこまでは至っていませんが、やろうと思えば野菜を買わないでまかなうくらいまではなんとかなります。

──釣りはしてたの?

ホントに腹が減ったときしか釣りはしなかったですね。僕、キャッチアンドリリースのフィッシングが嫌いなんですよ。魚にしてみたら、ときどき餌が流れてくるわけじゃないですか。注意しろよ、あれは偽物だぞって思いつつも、でもこれは! と思ってパクッと喰ったら、まんまと釣られるわけじゃないですか。

で、生き延びるために必死になって逃げて、でも最後は岸に上げられて「あぁ終わったぁ。がんばったけどオレ、死ぬんだ」ってときに、ペシペシと叩かれて「ナイスファイトだったぞ」とか言われて、ぐったりしているところを写真に撮られたりして、「最高だったぜ、また機会があったら遊ぼうな」って放される。いちおう、命は助かるからいいんだろうけど、オレはそんなのイヤだなぁって。

──たしかにそうだねぇ(笑)。

まあ言ってみれば、狩猟も準備のひとつです。コロナでガイドの仕事ができなくなるかもしれないから、いちおう備えは進めていたんです。仕事がなくなったら除雪の仕事でもするかなと考えたり、あとは鹿を獲って夏のタンパク源を確保することと、冬用のチェンソー──グリップにヒーターが付いていて手が凍えないもの──も秋のうちに買っておいたりしました。蓄えを作るために。

──コロナで仕事ができないことを想定した自給自足体勢。

結局、夏のガイド仕事はほぼ中止にしていました。自然のなかでの行動でもそうなんですけど、やっぱりダメなときはダメなんですよ。僕はそういう未知の脅威が襲ってきたときには無理をしないで、じっとしている。それが難しいというのもよくわかるんですが、耐えられるのなら、耐えたほうがいいかなって僕は思います。


※14 [服部文祥さん]

ご存じ「サバイバル登山家」。ミニマムな装備で山に入り、基本的に食料は現地調達という登山スタイルで知られるが、それがどんどんエスカレートして行った結果、狩猟をテーマとした著作が多くなっている。

佐々木大輔にとって
これまでで最高だった瞬間とは?

2002年 Skookum Glacierにて Photo : Yoshiro Higai

──WESCに初出場して8位になった20歳から数えると、今年は活動25年目になるのかな。自分のなかで最も印象に残ったできごとは?

ひとつは、死にそうになったクレバス転落。自分にとってはあれが最も危険なできごとでした。最高だった瞬間は、インディアンクリーク(※15)で当時5.12マイナスのクラックをオンサイト(※16)したときです。心の底から魂が震えたのはそのときでしたね。

──スキーじゃないんだ?

スキーでは……、え〜と、どこですかねぇ。たぶん『END OF THE LINE』のラストシーンになったアラスカの1本(※17)ですね。あれが僕の集大成の1本かもしれません。

その1本前に滑ったリッジ際のランも良かったですね。あれがもしも少しでも雪が硬くて、パンと弾かれていたらおしまい、ってラインに自信を持ってハイスピードで入ることができた。キレていたというか、乗れていたというか、ゾーンに入っていたというか……。今考えると恐ろしいですね。

──先日『END OF THE LINE』をあらためて観てみたんだけど、悪くないよね。本人としてはどうだったの?

う〜ん、もうちょっとできるかなという部分もあったし、でも、3年かけてこれくらいしかできないのかという部分もありました。だけど、その後に南極に行く予定が決まっていたから、あれでプロスキーヤーからガイドへスパンと転換しようと決めていた。そのなかでそこで自分のベストを出せたというのはあるし、いい機会を作ってもらったと思います。ありがたかったですね。

─この「STEEP」で下村雄太にインタビューしたとき、『END OF THE LINE』を観て佐々木大輔さんに憧れたのが始まりです」と言っていた。それを聞いて、やはり繋がっているんだなって感慨深かった。

大学生の研修に行くと、山スキー部に「NHKの利尻岳滑降を観て始めました」って学生がいたりしますからね。「デナリ滑降を観て始めました」って若い人はまだ見たことないけど、いいのか悪いのか、さすがに影響力はあるかなと。

──そういう流れというか、波及効果は確実にあると思う。

先日、札幌国際で滑っていたら、いい感じで攻めている大学生たちがいたんですよ。それを見たときに、ああ、こういうスキーをするのがいるんだなって。僕らの世代がいて、次の泰輔(楠泰輔)たちの世代があって、やはり少なからず憧れて影響を受ける世代がある。泰輔たちだって、必ずしも僕らの背中を見ているわけじゃないけど、やはり山を滑ってパウダーを攻めている。それに憧れる世代が出てくるわけで、そういう流れってやっぱりいいなって思いましたね。

──受け継がれるというか、繋がっているというか。

その大学生たちとたまたまゴンドラで一緒になったんですよ。たぶん、札幌市内のどこかの大学生だと思うんですけど、「やべ、授業始まる」って言って、ゴンドラのなかでオンライン授業に参加し始めたんです。ゴンドラのなかは授業内容がまる聞こえです。それで出席になるんでしょうね。で、ゴンドラ降りたらそのまま滑って行ってしまった。「イェ〜!」とか言いながら。まだまだいるんだな、こういうヤツらがって(笑)。

──なんだかいい話だね(笑)。では、登ることと滑ることを、自分のなかでどうバランスさせている? たとえば、デナリではクライミングもスキーも両方とも価値の高いことを成し遂げている。

う〜ん、思うんですけど、やっぱり新しい挑戦や、自分の能力すべてを使ってチャレンジすることが楽しいんじゃないですかね。だから、今ガイドをしていても、去年よりも知識や判断のレベルが高まっているなと感じるとうれしい。そうなると、日々異なるフィールドや環境だったり、それぞれ違うお客さんに対して、いいガイドができたかどうか。そのなかで、どんどん自分が成長していくのを感じることが自分のなかで楽しい。

それは滑りだけじゃなくて、登りも含めてのことです。そうやって鍛えてきたことが狩猟にも生きていた。鹿の動きや、行動、修正、場所などを、これまで自然のなかの活動で備わったことを応用したら、見事にとることができた。それはうれしかったですね。自然のなかでは真理はひとつなんですよね。

──今まで一番いいガイディングができたときは?

あまりそういうのは覚えていないのですが、どうですかね。今までノルウェーのロフォーテンは2回行っているんですが、1回目のロフォーテンかもしれないです。行ったことない土地で、初めての場所で良いガイディングするのが僕は真骨頂かなと思っているので。

Photo : Hiroshi Suganuma

──今までで最高のパウダーは?

今シーズンですね。もしかしたら以前にもあったかもしれないけど、しばらく記憶が途切れている。だけと、今年は間違いなく良かった。普通に滑ってオーバーヘッド。お客さんから「前が見えなくて滑れません」という声もよく聞かれました。今年は低い気温がずっと続いていたから、それが効いていますね。

──これだけいい雪を毎年滑っているのに、飽きることはないのはなぜかな?

う〜ん、僕にとってはこれ以上の遊びはないからじゃないでしょうか。自然の地形を自由自在に遊べる楽しさ。これはほかにありません。


※15 [インディアンクリーク]

ユタ州にある有名なクライミングエリア。赤い砂岩にスパッと伸びるクラックが特徴的で、「クラックの聖地」とも呼ばれている

※16 [オンサイト]

さまざまな登り方のなかで、最大級の評価を意味するクライミング用語。試登なしの初見でルートに取り付き、そのまま完登すること。途中でロープにぶら下がって休んだり、フォールして登り返したりすると、評価が1ランク下がって「レッドポイント」と呼ばれる


【編集者+ライター】
寺倉 力 Chikara Terakura
三浦雄一郎が主宰するミウラ・ドルフィンズに10年間勤した後、BRAVOSKI編集部員としてモーグル、フリースキーに30年近く携わる。現在、編集長として「Fall Line」を手がけつつ、フリーランスとして各メディアで活動中。登山誌「PEAKS」で10年以上インタビュー連載を続けている。

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